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一日一鼓【9月】

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「あの夏に出会った、すべての人たちへ」 これは、僕の再生の物語。
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「あの夏に出会った、すべての人たちへ」
これは、僕の再生の物語。

あの夏、僕は旅に出た。
どこかにいる誰かを求めて。

お腹が減りすぎて何も食べられないこと、あるでしょ?
遠くに広がる緑の匂いも、都会の喧騒も、あの子の囁きも、何も入らないくらいに僕の全身は何も欲していなかった。

“大したこと”って何だろう。

冷蔵庫のプリンを食べられたとか、月記念日を彼氏が忘れてたとか、シャーペンに付いてる消しゴム使われたとか。

…好きだった彼に彼女ができた、とか。

それって大したことないのかな。
そんな言葉で片付けられちゃ堪らないことが、人にはあるんじゃないかな。

夏休みの思い出を綴る作文は書き出しをいつも迷っていて、気付いたらチャイムが鳴ってしまって。大したことないから書けないやって笑って誤魔化した。

でもあれは、戯けるだけでなかったことになる小学生の思い出とは違う。
あの日の、これからの、今の、僕のために
存分に迷わなければ、と思う。

あの夏の記録…いや
この“物語”の書き出しを僕は「夏にしては肌寒くてパーカーを羽織ったある夜、僕は窓辺の猫に誘われるように外に出た」に決めた。

夏にしては肌寒くてパーカーを羽織ったある夜、僕は窓辺の猫に誘われるように外に出た。現実というものを目の当たりにするなんて、思いもせず。

夜になるといつも来る雑色の美しい瞳をもつ彼女。
今日も彼女に誘われる。

一緒に夜道を歩くのは日課であり、楽しみでもあり、言い訳だった。

彼女と歩きながら僕は、毎日公園を訪れた。密かに視線を送る先にいるのは、ボールの意思を汲み取るように戯れる、彼の姿。
1年前、彼女が…導いた。

「可愛い…キミ何歳?」
「わからないんです」
「あ、飼ってるわけでは…?」
「なくて。夜になるとウチに来るんです」
「へぇ。デートのお誘いでちゅか〜?」
なんて“猫撫で声”を出す彼に思わず溢れた微笑みを、今でも覚えてる。

今日も公園が近づく。
ボールの音が、彼の所在を知らせる。

僕は気が付かなかった。
この音が、いつもとほんの少し違うボールの音が「さよなら」だなんて。
思ってもいなかった。

心躍らせて跨いだ敷地にいたのは、
ボールを蹴り合う“彼ら”。
変な方向にボールを飛ばす女に、満面の笑みを浮かべる男…それは、どこからどう見ても“いい雰囲気”だった。

彼のいるあの時間の公園が1日で1番輝く空間だったし、僕はあの時間のために1日を過ごしてた。

でも。

慰めるように足にまとわりつく彼女に嫌気がさして、嫌気にのせられるように出した一歩が僕の感情の全てだった。

僕は猫が描かれたメッセージカードを隠し、彼らの声を背に唇を噛んだ。

大したことない訳ない。

でも、僕は別に告白もしてないし今思えば好意を持たれていたのかどうかもわからない。ただ想いの共有を願ってた。それだけだった。
そんな願うことしかできない僕の弱さに嫌気がさして投げ出した。
この感情の名前を知ったのは、残暑の中の木漏れ日を浴びたあの日だった。

東京のど真ん中で丁重に育てられた僕だったけど、現実逃避の先に当てがない訳ではなかった。
西にも東にも親戚はいたし適当なこと言えば泊めてくれる人たちだ。

でも、僕は初めて色んなしがらみを断ちたいって感じてしまって。上ることにした。
西でも東でもなく、もちろん当てもなく。

上に。

ショルダーバッグひとつ肩にかけて「どちらにしようかな天の神様の…」なんて小声で言いながら路線を決めて。
降りた先に広がっていたのは、緑豊かで空気が綺麗で水は透き通っていて見渡す限り田んぼ。The田舎。

でも何でか。いかにも不便そうな街並みを前に、僕は清々しい気持ちになっていた。

見てるのは面白いけど話しかけられたくない人って、ごくたまにいて。

それは僕の逃避行にも登場した。

穏やかな街を走るバスで乗り合わせた街並みに似合わぬ派手な風貌のおばさん。
気付けばじっと眺めてしまって。
目が合ってハッとした。
あぁ、困った。

僕はバスで2人になっていた。

案の定近づいてきたおばさん。
「あんた、どこから来たの?この辺の人じゃないでしょ?アタシ勘だけは鋭いのよ。こう見えてアタシね三児の母やってたからさ」

こう見えてって、どう見えてると思ってるんだろう。
長いバスの最後尾に座る僕には逃げ場なんてなく、あっという間におばさんの世界。

本当に申し訳ないけど僕は「変なおばさん」だと思っていた。
だって、全く恥ずかしげもなく自分のことを話すから。三代欲求に次ぐ「認知欲」を包み隠さず見せるから。
彼女は、自分を好きなことに誇りを持っていた。
そんなおばさんは、かっこよかった。

あぁ気付いたら降りるのも忘れて終点だ。