老後と最期について考える

以前の投稿で少しお話しさせていただいた、近所に住む母の知人(一人暮らしのおばあちゃん)ですが、先日お亡くなりになりました。

その日は朝から救急車が来たり、警察が来たりと、物々しい雰囲気で、私も気になっていました。別のご近所さんから聞いた話によると、お風呂場で亡くなっていたところを、「高齢者見守りサービス」の方が発見されたとのことです。
少し前にお会いした時、一人暮らしの寂しさを涙ながらに話していたことが、今でも心に刻まれています。そして、「また母との散歩の際にお会いできたらなぁ」と思っていたので、とても残念な気持ちになりました。そして「一人でお亡くなりになるなんて、少し寂しい感じもするなぁ」とも感じていました。

しかし、ハッと気付いたのです。
「一人暮らしの高齢者が自宅で人知れず亡くなっている」というのは、高い確率で「私の人生の最期」なんですよね。更に言えば、「自分にとって理想的な最後かも知れない」という気持ちすらあります。私の老後は間違いなく一人で過ごすことになるでしょうし、人付き合いが苦手ということもあり、施設に入居するよりも、自宅で誰にも気兼ねなく余生を過ごしたいと考えています。そう考えると、「今回のご近所さんの亡くなり方」というのは、私にとっては「一番リアルで理想的な自分の最期」なのだと思いますが、それを客観的に見たときに「何だか寂しい感じがする」というのは、自分でも「どうしてだろう?」と思ってしまいます。死後に「こんな死に方は寂しい」という感情が溢れてくるとも思いません。単に「周りが勝手に寂しさを感じてしまうだけかもしれない」という気もしますが、本当のところはどうなんでしょうね。まだ私自身も整理がついていません。

人生において「どう生きたいか?」は考えることは少なくないと思いますが、「どんな死に際がよいか?」について考えることはあまりありません。著名人や地位や名誉のある人なら、「ファンや関係者など多くの方々に見送られて・・・」という考えもあるかと思います。そうでなくても、「家族、親戚、親しい友人に見送られたい」と思う人が多いのかな、とも思います。
私自身について言えば、「痛くも苦しくもない」とか「自宅で静かに」みたいな感じだと思います。それよりも「死ぬ前に自分の日記を始末しておきたい」というのが現実的な感じがします。よく「最期の晩餐は何が良いか?」なんて質問がありますが、正直なところ全く思いつきませんし、「最期にどうしても会いたい人がいるか?」と言われると、「今のところ、それも思いつかない」というのが正直なところです。
以前に「『どう死にたいか?』ということから逆算して自分の生き方を考える」というような話しを聞いたことがありますが、私にはかなり難しいアプローチに感じられます。

ある程度の年齢を重ねてきたこと、体調万全な日が増えてきていることもあるのか、今回の件で「死」というものが、より一層身近なものに感じられるようになったと思います。

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