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すべては過去形

2023年9月1日、祖母が亡くなった。
92歳、胆管癌だった。

18歳で実家を出るまで祖母とはずっと一緒だった。共働きの両親とともに私を育ててくれた人だった。私は周りの誰もが認めるおばあちゃん子となった。

最後に会って話をしたのは亡くなる2日前だった。本当に偶然が重なってのことだった。実家近くで仕事が急遽入り、2ヶ月ぶりに出来た帰省だった。

その時も祖母は私の冗談に笑ったりしていて、いつもと変わらない様子に見えていた。元気そうで少し安心して帰ったぐらいだった。

しかし、身体は相当弱っていたようだった。

その日、仕事終わりに携帯電話を覗くと、母からの着信で画面がいっぱいだった。すぐに折り返して電話を掛けた。嫌な予感は確信へと変わった。私は病院へと急行した。

20時前に着いた時には、すでに呼びかけにも応えられない状態だった。先生方には懸命に処置していただいたが、下がった血圧は戻らなかった。

それから1時間後、家族に見守られる中で祖母は息を引き取った。


祖母は苦労の多い人だった。
40代後半で祖父に先立たれていた。

再婚もせず、仕事、子育て、田んぼ、田舎の付き合いに奔走してきた。昔からよく知る人は、祖母が村で一番の苦労人だと言っていた。

年を重ねてからは、動くたびに身体中に痛みが走ると言っていた。歩くのさえ容易ではない様子だった。難聴も患った。

そんな中でも、頭の回転は変わらず早かった。滑舌も良く、物忘れとも無縁の人だった。

自分の子供より孫が可愛いと言っていた。理由を聞いてみても、何故かは分からないと言っていた。明るく、厳しく、何より優しい祖母だった。


祖母の死後まもなくは葬儀の準備に忙殺された。哀しみに一旦蓋をする時間だった。田舎の葬式はとりわけ複雑で忙しかった。久々に多くの地元の人に会った。

私は夜伽役を願い出た。最後の夜を祖母と二人だけで過ごさせてもらえることになった。通夜の後、着替えだけ持って一人、誰もいない式場に戻った。

立派な祭壇の前に祖母は横たわっていた。棺の傍らに勝手に椅子を運んで腰掛けた。祖母の顔を見ながら、改めて色んなことを考えた。

怒られるかと思いながら持ってきた、祖母の日記を読んだりもした。そこには日々の出来事の他に、身体が動かないことへの悲しさ、日中の寂しさが綴られていた。

最後に会って話をした日、祖母が自ら語り始めたことがあった。それは祖父の死因についてだった。祖父は自死を選んだ人だった。

そのことについては、子供の頃、祖母のいない場所で両親から聞かされていた。ただ、祖母の口からそれを聞くのは今までで初めてだった。

もしかすると祖母は自らの死期を悟っていたのかもしれないと思った。

亡くなる2日前に会えたのも、虫の知らせのような、何かの思し召しのような、そんな気がした。

祖父のことを話し始めた時の何とも言えない表情が、私の祖母に対する最後の記憶となった。


遺影の祖母は笑っていた。
写真嫌いの人だったので、なかなか選ぶのが大変だった。

棺にはたくさんの思い出を入れた。祖父の写真や表札も入れた。向こうで再会を果たしているといいなと思った。

そうして、祖母は無事、小さな箱になった。


目まぐるしい非日常はひとまず終わった。
普通の生活に戻る時が来た。

祖母は紅葉で赤黄色に色づいた山々を見るのが好きだった。あと少し持ち堪えてくれたら、などと考えても仕方がなかった。祖母は全力で生き抜いた。

すべては過去形となった。
季節は秋に変わりつつあった。

私は祖母に恥ずかしくない生き方をしようと思った。

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