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書くということと、私。

最近ライターというのは、人気の職業らしい。一つはフリーランスへの道が開かれやすい職業だからかもしれない。好きな時間に仕事をして、みたいなそんなイメージがあるのかもしれない。

私は、書く、という行為が比較的好きだ。

だからオンラインでライティングの講座を受けたりもした。ただその時に、
あ、これは私がやりたい書く、ではない
と思ってしまったのだ。読まれるためのテクニックを使って書く課題に対して、全く手が進まない。勿論、私がぺーぺーなもんで、うまくテクニックを使いこなせないという理由はごもっともだ。だからその講座ももう少し続けていようと思う。

でもそれだけではない違和感もやっぱりある。なんでなんだろう。
私は元々なんのために文章を書いていたんだろう。私にとって書くという行為は一体何だったのか。

私にとって書くことは、自分と社会の繋ぎ目を自分にわかる形で可視化する作業だったんだと思う。

そこには、楽しさ、とはまた別の感情がある。書かないと、って感じなのだ。それは、飢えともちょっと違う。焦り、が近いかなぁ。それは漠然とした不安みたいなものなのだ。

書くことが減ると足元の地盤がどんどん緩んでいって、とても不安定になる。立っているようで、浮かんでるようで、でも沈んでるようでもある。そんな感じ。世界と自分の接続面が緩み、見える世界の解像度が、がくんと落ちる。それは、私にとって怖いことだ。

私は自分の足元を明確にするために、書いている。
今どこに立っていて、そこから何が見え、どんな気分か。そういうことを、逐一言葉という形で可視化して、地面にくくりつけておく。そういうことをしておきたいんだ。たまに必死なぐらいに。

自分が世界に存在することに対する漠然とした不安を忘れるために、言葉という手段を使って、自分の社会を可視化して、世界に自分が存在する印を未来の、過去の、今の自分に示すようにこっそりとくくりつける。

だから、私はどうしても、「読んでもらうための言葉」に気合が入らないのだなぁ。私にとって書くことは手段ではなくて、目的であり、読むためのものではなく、書くために書くという行為が存在意義を持つのだ。

そしてそんな私の書くという行為は、弱さもはらんでいる。何かを主張すること、伝えることによる、他者への不用意な押し付けを私は恐れている。そこには、基本的に人は違うのであり、自分の声は誰かにとって有益だったり、いいものではないという、ずるい逃げがある。タイムラグがある分、一方的に相手側に投げて終わりになりやすい書くという行為において、分かり合えない、伝わらないという逃げがある。それは確かにある意味真実であり、半分は言い訳だ。

そんなことを考えながら、私は今日も書くということをしている。自分と社会の繋ぎ目を、一生懸命に見えるものにしたくて。そしてその繋ぎ目を誰かが見て、無愛想で、不親切なものだけれど、なんか感じるものがあったと思ってくれるのを密かに期待したりする。と同時に、もっと言葉や自分や、その可能性を信じた言葉を紡げる人になりたいと思ったりもしている。


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