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切り取られた物語が氾濫する世界と、身体を持ち連続する世界で生きる私たち

先日こんなnoteを書いた。

確かに思っていたことに違いはないんだけど、なんかまだ書きたりないというか、なんかもっとこれは私の中で広い概念としてあるんだ。そんな気がしていた。

例えば、可愛い女の子が青い海の下でこちらを向いて笑うインスタ。子供の微笑ましい行動を描く漫画のインスタ。華やかな旅行の情報が乗ったwebページ。自身のうつ病経験をリアルに描いたブログ。自分の仕事論や価値観が溢れかえるTwitter。おしゃれな洋服をモデルのようにとるWEAR。

情報に触れると、必ず目にする、そういうものに少し疲れを感じる。なんだろう。それ自体が苦手だとか、そういうことじゃない。でもそれらを見続けることも、また自分の発信することがそのようなものになるのも、私にはちょっと違和感が残る。

それらは、誰かの物語のほんの一部であり、一側面であり、そこには身体を伴い絶えず生活を続けるほか道がない、生きるということの全体性が見えない、そんな感じがするから。勿論SNSや情報の使い方はそれぞれで、どのような情報発信をするかは、個人の自由だ。

でも、そのような情報に毎日触れていると、自分の日常、生活、生きる、ことからどんどん頭や体が阻害されていく、そういう感覚がある。

今は信頼の時代だ。という。そしてそれを目に見える形にしようと、色んな容易な言葉が飛び交う。

・フォロワーを増やすためのインスタ講座・バズるツイートとは・人気アカウントの共通点・インフルエンサーになろう

むちゃくちゃ気持ち悪い。確かにフォロワーが増えて、知名度が上がり、フォローしてくれる人が増えれば、その人が人生で成し遂げたいことを支持してくれる人は増えるだろう。でも、そのために武装して切り取って、選択した情報に対して、人は信頼が欲しかったのだろうか。

SNSの普及によって、より個人が簡単に発信をすることができるようになった。すごい社会だと思う。”芸能人”て括りなんて、そのうちなくなってていくのかな。より多くの人の声が、容易に私たちに届くようになったと思う。

ただ、それらのストーリーはいつも、より断片的で、一面的なものになった。自分の人生を生きるという目的のための発信ではなく、自分の人生を生きるための信頼を獲得するための手段に成り下がってきた。なんども言うけど、それ自体が悪いわけではないと思う。ただ、私たちが常に触れている情報たちが、世界の誰かの物語の一部でしかないことを常に忘れないようにしたい。

私は情報として浮かび上がってくる世界と、自分が生きている身体を伴う連続性のある世界とのその隙間の存在をいつも意識していたい。そうしないと、気がついたら自分の身体性を伴う社会から自分が阻害されてしまっている、そんな怖さを感じるから。私は少なくとも今のところ、身体と結びつけられ、逃げ場がなく、容易な切り取りが不可能なそういう世界というものの中で生きざるを得ないし、そこに自分が存在することが悪くないと感じているから。

#物語 #SNS

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