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理想を殺すのはいつだって自分【民藝講座所感①】

『民藝』という言葉を創った柳宗悦。近代化=西洋化といった安易な流れに警報を鳴らし、柳は東洋的近代化を探し続けた。

工業化により大量生産にシフトする時代に、「物質的な豊かさではなく、より良い生活とは何か?」を柳は【民藝運動】を通して追及した。


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岐阜の飛騨高山にあるやわい屋さんの店主である
朝倉くんが主催の「やわい屋の民藝講座」を受講しに、岐阜に行った。

今思うと、民藝というの言葉をそもそも知ったのも朝倉くんから。

それで、その時から「民藝って何だろうな」と思いながら過ごして、本当に「まあなんか今じゃない気がする」と思っていた。民藝が何かを知らないくせに、何が「今じゃない」だとつっこみたくなるけれど、言葉から感じる勘というのもあながち間違えではない。

そしてここ二年くらいから、意識に表出してきた。そうなると、周りにも「民藝」の言葉が増えてきているように思えて、それは今まで私が見えていなかっただけなんだろう。意識に出てくると、常々そういうことが起こる。引き寄せなんて言うけれど、アンテナの周波数が変わってきたのだと思っている。

第一回目の講座で、心に残っていることは、朝倉くんの「柳はずっと理想をみていた」という言葉と、柳宗悦は「100年先を見つめた思想家」と言われているという言葉。

自分の思想を、理想とするには膨大な材料がいるのだと思う。言葉、感覚、思想、技術、文化…etc.。そういうものを知っていなければ、理想という一つの形にできない。理想は形がないが、理想を追い続けるには、理想を自分の中で形にしなければいけない。それにかかるエネルギーは膨大だろうと思う。言うなれば超自我ならぬ、超理想にしていくのだ。それで、その理想を次にどのように実現していくか、の行動が生まれてくる。

そういうことを考えると、理想を持っている人は案外少ない。いや、現実的な、世俗的な、階級的な、マウント的な理想はたくさん存在している。でも世間では「理想を追い求めて、現実見なさいよ」なんて馬鹿にされる時にも使われるこの言葉を、「お前は、お前の理想を持っているのか」「その理想を持つこと自体に、とてつもないエネルギーが必要なんだぜ」という言葉で返したくなった。
それで、自分がついこの前まで自分に対して「所詮私の思うことなど理想かな」なんて思っていたから、「お前は、理想を追い求めぬのか」と殴られた。(笑)殴られたけど、許されたような気持ちにもなった。これでいいんだと、そういう信じる土台をいただいた気分だ。

私も理想を生きようと、思えば理想を生きるために生まれたのだと、壮大な気持ちで帰りは峠を帰った。理不尽と不条理などに、理想が殺されることはない。それによって、レベルアップするくらいのことよ。
殺すのはいつだって自分のみ。

民藝について学んだのか、自分の気づきを発見したのか、今回はそういう時間になったけど、新しい学びというのは、大体その時の自分にとって必要なことが訪れる。

だから、まあ何が言いたいかというと、例え次の日が主催のセミナー日のため、講座終了後21時半から高山〜横浜まで夜通し帰らなくちゃいけなくても(その事実に、申し込んだ1ヶ月後に気づいた)、全然平気ってこと。計画性の無さに脱帽だよ。

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