20240119

 芥川受賞作『東京都同情塔』(新潮社)について、作者である九段理恵が会見において「作中5%くらいはChatGPTを使っている」と述べたことが波紋を呼んでいる。批判的な意見もあるが、その多くは作品を読んでいないのだと思う。というのも、読めば分かるが作中では生成AIとの会話や、海外ジャーナリストとの質疑応答のやり取りにおいてそのまま生成AIが登場し、恐らく彼女が言ったのもこの生成AIの文にそのままChatGPTを用いたことだろう。そういう文脈で捉えれば、この作品においては必然性があるし、読み返してもAIっぽい文章である(それは逆に、わたしにとっては安堵の気持ちさえ覚えることだった)。むしろ、恐ろしいのは九段の発言が嘘だった場合、読者としてはそれが人間が書いた文章だとは絶対に気づかないという点、つまり人間側の認識の方である。わたしが作中の文をAIっぽいと感じたのも、生成AIという表現を用いられたことによるバイアスがかかっているかもしれない。それに加え、今回の波紋が物語るように純文学の文芸誌の掲載された小説にまさかChatGPTを使った文章がそのまま使われているとは(わたしを含め)誰も思っていなかったという、文学をどこか神聖性をもって読んでいたことである。
 その上で、今回のことで懸念されるのはChatGPT自体、欧米では学習において使われた先行作品中の文章をそのまま使っていて裁判沙汰にもなっていることを鑑みると今の時点でそのまま使用するのはリスクが大きいのではないか、ということだ。使用するとしても、作者の手によって表現や言い回し、文の構造をチェックし推敲した上でさらに校正の手を経て表現されれば、そのリスクは限りなく減るだろう。わたし個人としては、小説だろうが絵画だろうがAIを使用することに抵抗はない。ただ最終的にそれを評価するのは人間であるということが大事である。ChatGPTによって書かれた小説は、初めの内は物珍しさで注目されるだろうが、果たしてAIの創作物を人間が欲し続けるかというと甚だ疑問である。

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