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『空間 時間 建築』の時間とは?

「空間 時間 建築」は建築学科で必ず教えられる様な古典となる本の一つですが、ようやく本書を読み終わったので、その主要なところをまとめておきます。「モダニズム」っていう言葉は聞いたことあると思いますが、建築におけるその正当性が語られているのが本書です。

プロローグ

時は19世紀後半から20世紀初期にかけての産業革命直後の世界。その社会情勢の大きな変化を受けて、当時世界で最盛期を迎えていたバロック様式や歴史主義建築はその新しい社会への適合に際して、その見直しを迫られており、建築界では様々な提案や考え方が隆起していたのである。その過渡期において、現在では「モダニズム」と呼ばれる考え方を基にした建築が、主にヨーロッパ・アメリカを舞台に同時多発的に示されていた。共通するのは、それまでの〇〇様式という形式(=歴史主義)自体から脱却して、新しい建築空間の作り方(概念)が示されていたことであった。ギーディオンはその考え方の正当性・妥当性を早くに見抜き、それまでの歴史主義(=様式主義)とモダニズムの狭間で揺れ動きつつも、結局はモダニズムの側に振れていく様子を、主要な出来事や、対立軸となったテーマと共に振り返り、整理し、課題までをも提示している。それら歴史的考察とも言える過程を通じて、「モダニズム」の輪郭を浮き上がらせようとしている。

本編

個人的には本書のテーマとしては、以下の3点と考えられる。

①新しい空間概念=時間の概念

②モダニズムの目的・手法の正当性

③モダニズムの課題

まず、①について。例えば絵画の描き方にも時代ごとの特徴や流行がある様に、「空間」にもその認識のされ方や作られ方には歴史がある。古代ギリシャの頃には外部の表層が主な対象であったため彫刻的に建築を彫り込む様な考え方であった(外から見た時のイメージがやはり印象的ですね。)が、ローマ時代になって教会建築などでは内部をくり抜く様な形での内部空間の概念が登場した。(荘厳な内部空間はイメージ出来ますよね。)その後、遠近法の発見によって、建築家や都市計画家は、いわゆる「インスタ映え」する様なイメージを作るための強力なツールを獲得できたのである。これが19世紀頃までのお話し。産業革命後の20世紀初期頃になり、モダニズムでは、さらに1歩進めて、この遠近法の単一焦点の性質を廃止することで新しい空間概念を提示したのである。「時間」の概念はここに関連するのであるが、つまり単一の視点からだけではなく、歩き回っていくつかの視点からの相互の関連やその歩き回る楽しさを、「空間」の構成に取り入れたのである。この概念は絵画における未来派・立体派(キュビズム)が取り入れていた手法(つまり、正面・側面・上・下などからを並列して表現する手法で、ピカソ、ブラックなどが有名)から応用したと言われており、その主たる建築家としてル・コルビュジェ(彼はキュビズムの画家でもあった。)などの実例がその根拠として説明されているのである。(*コルビュジェ建築の別の解説書では、「建築的散歩」とも言われている。)

②のモダニズムの目的・手法の正当性については、主たるターゲットが市民階級に降りてきたことを受けて、1)歴史性の排除と2)目的・機能への適合を図ることで、それまで様式>機能であったため、使いにくい、建設費がかかるといった不満を解消したと説明されている。(だいぶ大雑把に言ってますが。)

③モダニズムの課題(モダニズムが隆起している最中に本書が書かれたとは思えないが。。。すごい!)として、幾何学と有機、合理と非合理の釣り合い関係において、常に合理的なものの方が優勢を保ってきたことを挙げている。これは機械化における警笛でもあり、さらに人間の思考と感情の分離状態であるとも訴えている。少し付け加えると、モダニズム以前に『様式』として時代ごとのスタイルを作ってきた目的は人間の思考と感情の表現を一体化させることであるとも言えるのであり、著者は歴史を振り返りつつ、そこから予想される課題も明示してくれている。

建築におけるモダニズムって言葉は聞いたことあるけど、何だろうとか、はたまた、直方体の箱でしょ、とか、機械化・合理化したってことかなと思っていた方も多いかもしれません。これは、実は、コストなり数値化なりがしやすい部分だけが切り取られていて、片手落ちな認識であったことがわかります。「空間」という部分が実は本丸であり、それは例えばヨーロッパの教会建築やベルサイユ宮殿の庭園の様なシンメトリーで一目でその空間の全てが見渡せる空間から、歩きながらその変化などを楽しむ空間に変わっていることであるとも言えます。少しややこしいのは、1つ部屋(立面)だけ取り出す際はそれまでのタテヨコ比などのバランス感覚(専門用語では、黄金比やトラセレギュラトゥールといった手法があります。)は残されている場合が多いこと。ただ、建築は1部屋だけでなく、多くの場合はその連続が必要になるため、その全体性や空間自体をより楽しいもうと感じられる空間認識の方法とも言えそうです。

どこかで建築(美術館でも市民館でも住宅でも)を見る際に、ある大空間の主要な通路がその空間の端を通らせるのか中央なのか、とか、移動している最中に小さな部屋から大きな部屋への変化する、とか、あえて入り口周りでクランクさせた通路が設定されている、とか、いろいろなパターンはありますが、その変化に注目してみてください。もしそんな変化がありそうだと感じたら、「これってモダニズム意識してるのかな〜。」とか「建築的散歩って知ってる?」と誰かに言ってみましょう。もし建築家(又は設計者)がこれを聞いたら、身構えてしまうくらいのパワーワードになるでしょう!!!

以下、もう少し詳細に建築に興味ある方向けです。

この本は、ジークフリート・ギーディオンがハーバードで行なった講義録を元にしており、1941年に英語版初版が出版。当時は1つの流れであった建築のモダニズムについて、19世紀までの様式主義の流れを受けて、その正当性を説明しており、これが現在でもそのまま定義に準用されているのである。そのため、モダニズムの次なる展開を考える上などで、定義に戻る際には、この本がいまだに登場してくるという云われである。

モダニズムあたりの流れをザクッと説明すると、モダニズム登場以前は社会的情勢の変化に合わせて、フランス王政・教会の権威を示すために発展したゴシック様式や、イタリアの文化革命に端を発するルネサンス様式、カトリック教会の権威を示すために発展したバロック様式といった様に、生活・文化(社会的要求とも言い換えられるが)に合わせて、建築を含む芸術要素や社会文化全体が同じ方向に向かって1つの様式(スタイル)を提示していた。しかし、産業革命などにより、それまで歴史に登場してこなかった、市民階級が主役となってきたことや新しい素材の登場といった社会情勢の変化を受けて、建築モダニズムでは、それら①歴史的様式の排除を行い、②目的への適合(合目的性)を追求することで、新しい空間感情を獲得することを目指している。

空間概念の歴史を整理しておくと、(以下は本書からの抜粋で一部筆者にて加筆・修正)

初期ルネッサンスでは、遠近法の発見によりそのパースペクティブが強調される様なヴォールトの配列やそのヴィスタの取り扱いなどが主要なテーマとなった。ダヴィンチは常に有機的なものや非有機的なもの内にミクロとマクロの視点に隠された動的な力を探ろうとしており、彼は植物の描写に動的な成長の感覚を吹き込むことが出来たのである。

バロック時代の特徴は思考と感情の一致であり、一種の独特な普遍性の発展がある。空間を形作る力としても、様々な部分から1つに統合された驚くべき全体を作り出す力となって現れていることである。都市計画的には、遠近法の手法により、焦点に向かう1つの連続する相互関連の連鎖が緊張感を作り出している。建築単体では、壁体の起伏を強調することで光をファサードにおいて躍動させる手法が取られているが、これは同時代のレンブラントが絵画で試みていた手法である明暗対象法を建築的に応用したものと言われている。

また、バロックの建築家のたちの仕事は、次の2つに現れており、それにより、空間に奔放さと柔軟性を獲得するに至る。①人言の住居のより高度に洗練された形式の発展と、②外部空間の組織化である。また、当時の社会様式の変化としては、女性の影響と宮廷儀式のしきたりの2点が挙げられ、これらも建築の特にプランに影響を与えている。

産業革命の到来により人間生活から見失われた均衡状態は、今日(出版時点)に至るまで回復されていない。

われわれはすでにバロック時代に、新しい科学上の諸発見が(最も抽象的な数学的発見でさえ)すぐさま、それに符合するものを人間感情の領域に見出し、どの様にして芸術言語に翻訳されてきたかということを見てきた。19世紀においては、科学の進む道と芸術の進む道とは離れ離れになっていた。思考する方法と感受する方法との間の繋がりが断たれてしまったのである。

19世紀とルネサンスでは、人間の理想像に、大きな隔たりがある。ルネサンスの理想像は「普遍的人間」であり、あらゆる異なった「種類」の活動を結合し得た人物であり、同時に芸術家、科学者、技術者であることであった。これに対し19世紀の理想像は工業という1分野の中でのあらゆることをなしうる人間であり、「時計作り−鉄工−技師」といったタイプの人間であった。(つまり専門家)

19世紀の後半の先駆者達の動きとしては、一般に流行している建築物(歴史主義建築)を「見せかけの建築、すなわち模倣、すなわち虚偽」として認識しており、その虚偽が法則となり、真実が例外となってしまったと述べている。モダニズムの2つの原則はその様な現場から「かかる汚毒された環境を一掃せよ!」との運動に端を発している。この運動はその真の源泉ともいうべき倫理的な要求から、その力を獲得したのであった。

この後、本書の後半ではアメリカにおけるモダニズムの発展、美術・建築・構造における時−空間(主要事例の紹介)、19世紀の都市計画、人間的な課題としての都市計画、都市計画における時−空間について述べているが、詳細は省略する。

が、1点アアルトの事例については、非合理性について追求していた第1人者として載せているため、抜粋しておく。

アアルトは標準化と非合理性との結合を企ててきたもっとも有力な代表者である。建築的な表現の質がひどく低下してしまったので、その治癒方法としては、全てを切り捨てて時代の標章となった健全な基礎(鉄骨とコンクリート架構)を残し得た時のみ、うまく成功し得たのである。西洋の技術と彼地震の芸術表現上の言語との連携を見ることができる。つまり、①鉄筋コンクリート構造、②水平な窓の帯、③屋上テラス、④上拡がりのキノコ状(無梁版)天井などがそれを示している。

建築を硬さという驚異から救おうとする(有機体の様な柔軟さを物体に吹き込もうとする)試みは、彼の生国の自然がその動機であると考えられる。マイレア邸では、それぞれの違ったテクスチャーの使用は、18世紀のロカーユ(*18世紀の建築に見られた壁面の仕上げ方法の1つ。小石を散りばめて化粧するもの)の使用方法と同じ意味を持っている。すなわちそのどちらも流動する空間に抑揚をつけるのに役立っている。

読後感想としての個人的意見であるが、空間時間建築の「時間」が示しているのが、空間体験上の時間を示していたということは、個人的には新しい発見であった。モダニズムの示す理想の空間モデルも実は日本の伝統建築と似通っていたところがあったことは周知の事実でもあるのだが、実はその時間の概念(本書では新しい空間概念)も、槇文彦が示す「奥性」や、日本の露地空間や神社の参道の考え方に近いものがある様に思われる。多少誤弊を承知で簡便に言い換えると、日本の伝統的な露地や参道はその全体が見通せない様に植栽も含めて”あえて”設計されており、体の向きをあえて変えさせて視界や体験を変化させることや露地の舗装材料(足裏への感覚)を変えることや飛び石の間隔を変えることでの緊張感を演出するなどして、人間の5感に変化を与え、そこでの体験をより豊かにするということ目的としていたのである。こう考えると日本の露地空間の方がさらに高度なことを考えている様にも思えるが、その最初のところのみ(移動による視覚の変化を空間構成に取り込むあたり)を取り出して、モダニズムの空間認識と日本文化の一面が似ていると思ったのである。

#建築 #デザイン #モダニズム #時間 #空間

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