冷静に考えたらBLに萌えるのはおかしい

※男性妊娠、オメガバースといったいわゆる「BL用語」が飛び交いますが、必ずしもBL愛好者に向けて書いた記事ではありません。男性の方、BLという文化に縁のない女性の方でも「理解したい」「興味がある」という気持ちで目を通して頂いて構いません。

私は女性で、膣があり、排卵していた。私は犯されうる肉体を持ち、妊娠させられうる状態でいた。
私は、男性から性的な目で見られることが多かった。性的な目的で利用したいと思われることが多かった。
『八本脚の蝶』二階堂奥歯

私が二階堂奥歯のブログ『八本脚の蝶』を読んでいたのは、二十歳になるかならないかの頃だったと思う。
私が初めてボーイズラブという文化に触れたのは中学二年生のときだったと思うから、腐女子としてはそれなりに年季が入ってきていた頃だ。

思春期から始まり成人に至るまで、それなりに長い間、私はどうして男性同士の恋愛を娯楽として消費し、ときに性的に興奮し得るのか、理解できないでいた。そのことを気にすることもなく、ただ欲望のままに十代は過ごした。

そして二十歳を超えたころ、そのころのBL界隈全体の傾向だったのか、私が所属していた「ジャンル」の傾向だったのかは不明だが、特に性的要素の強いBL作品を目にする機会が増えた。
私が十代だった頃に目にしていたBL作品は、どちらかというと少女漫画・レディコミ系の表現が多く、性的描写においても心理描写が重視され、直接的な表現は避けられていた。今でも、私より年上のBL愛好者の層には、最近のBL作品に多い「♡喘ぎ、濁点喘ぎ、モロ表現」といった「男性向けエロ同人」由来の表現を忌避する人は多い。
ところが、pixiv等の主に若年層向けのプラットフォームではこうした描写が人気を博す傾向が、近年ますます高まってきているように感じる。

上に挙げたpixivは「二次創作」「インターネット」のBL巨塔といえるが、商業BLの書籍においても、「オメガバース」が他の追随を許さない超人気ジャンルとなっている。そしてオメガバースの代表的な設定の一つに「男性妊娠」がある。

同じ男性でも「α(アルファ)」の男性が「妊娠させる」側であるのに対して、「Ω(オメガ)」の男性は「妊娠させられる」側の特徴を与えられている。

尤も、男性妊娠はオメガバースの必須要素ではない。直接的な妊娠描写に性的興奮を覚えている女性は少ないように思える(というか私はそう)。むしろここでは、基本的には「受け」の立場であるΩの男性が「妊娠させられうる体もしくはその特徴」を持っていること、少なくともそういった存在として、「攻め」もしくは、社会そのものから扱われていることが重要なのである。
さらにそのΩの妊娠させられる性としての特徴が、αの存在によって強化され、決定付けられるのも、重要な要素だ。

二階堂奥歯は同ブログ内で、男性による女性幻想が含まれる文学や哲学には「男性による女性の客体化」の要素が含まれており、共に女性幻想を称揚する「名誉男性」としての地位を得ないと、主体になることを許されないと批判している。

男性による女性の客体化」と、「性的対象化」、このどちらの要素もボーイズラブは携えているように思えた。
特に「性的対象化」の部分は、男性の体を「妊娠させられうるもの」として取り扱う、オメガバースや男性妊娠の世界観を想起させられる。

また、妊娠という要素が絡まなくても、「受け」の男性に女性的役割を与えるというBLの構造については、これまでも様々な仮説が立てられていた。

この「女性的役割」は、性的に「妊娠させられる側」であるという意味に留まらず、「家庭に入って支える」「(経済的・及び身体的に)庇護される」といったジェンダーロールのことも指している。

最近だと昨年のユリイカ9月号「特集・女オタクの現在」で柳ケ瀬舞氏が「腐女子はバッド・フェミニスト(?)」というタイトルでBL作品に偏在するミソジニーに関して言及していたのが記憶に新しい。
女性である自分と、男性を「女性に貶める」ことによって興奮を得る自分という葛藤は二十歳頃の自分にも身に覚えがあるところだった。
(それにしても、男性向けエロ同人から輸入されたと思われる「メス堕ち」という表現を見るたびに背筋が凍る。言葉狩り的に批判しても仕方がないだろうから、せめて自覚的・自己批判的に取り扱われていくことを願う)

しかし、今となっては「女性的役割を与える」「男性性を奪う」=ミソジニー・女性蔑視と考えるのは、それこそ男性社会的価値基準に囚われすぎているのではないか、という疑問も浮かぶ。「それが押し付けられたものでなければ」という前提に基づくが、女性が与えられてきたジェンダーロールは必ずしも屈辱的で男性に与えられてきた役割より価値の劣るものではない。

特に子育ての機会や配偶者に扶養されることを前提としたライフプランは、女性に有無を言わせず押し付けられた一方で、男性から問答無用で奪われてきたという見方もできる。女性が主体的に奪ったのではなかったとしても、男性社会が個々の男性からそれを剥奪していたという構図だ。

こうしてジェンダー平等を、単純な女性権の拡充ではなく、「男性のマチズモからの解放」という視座で捉え直すことによって、私の葛藤はいくらか解消された。

勿論、作者の立場で受けに性的にも社会的にも女性的役割を「押し付ける」こと、それを本人が望んで受け入れるように描くことは、フィクションだからこそ成立する。BL作品における男性は当事者性の高いゲイ文学と違い、主体ではなく、客体として取り扱われている。

こうした理由から、私はそれを嫌がるBL愛好者が少なくないことを知っていながら、「BLは女性向けのポルノ」という表現を繰り返し使っている。「これはポルノだ」という意識を失うのが、とてつもなく怖いのだ。

二階堂奥歯が指摘した「女性幻想」「客体としての女性」は、男性向けのポルノに限らず、「純文学」と称されるような文学のジャンルから、延いては科学の領域でもある哲学の分野にまで平然と紛れ込んでいる。

ここに来て振り返ると、Pixivが台頭し、いわば腐女子が「市民権」を得る前の個人サイト全盛期のいささかやり過ぎに思えるほどの注意書きはなるほど有用な「文脈発生装置」だった。レンタルビデオ屋の黒いカーテンに似ている。

いつの間にか、腐女子もオタクも被差別者ではなくなっていた。BLという趣味を明かすことは以前より抵抗感がなくなり、腐女子という自嘲的な自称を控える者も増えた。それ自体は悪いことではないと思う。

かつて、一部の腐女子の自嘲は自己卑下に留まらず、現実の男性同性愛者への軽蔑を含んでいた。自分たちの欲望の対象が「本来醜く滑稽なホモ」であることを自ら揶揄していたのである。この「腐女子界隈」における明らかな同性愛差別が薄らいできたこと自体は歓迎すべきことだ。

しかし黒いカーテンの中で育ったBLの文化が、黒いカーテン、即ち「これは女性向けポルノです」という文脈を取り払われて外の社会を侵略していくことには一抹の恐怖を覚える。

二階堂奥歯という女性は、「自分の体は(私の許可がない限り)性的に利用されうるものではない」ということを強調するために、貞操帯を所持していることもブログの中で書いている。このとき彼女は貞操帯を隠し持った銃に喩えるが、私はむしろ盾だと思った。

女性による男性の客体化、そして性的対象化、つまりBLこそが剣であり、銃となりうるだろう。

これは決して、BL愛好者がミサンドリストであり、男性をかつての女性の位置に引きずり降ろしてやろうという暗い気持ちから、BL文化が生まれたという指摘ではない。

私のこうした考えの全ての源泉は、BLを求める自身の欲望が一体どういうメカニズムで湧き上がってくるのかわからない、という不安から来ている。

たとえば男性の性的欲望に関しては、常に「あるもの」として論じられ、十代の内から性教育の機会もある。ポルノは現実とは違うという啓蒙も、既に散々行われてきた。
一方で女性の性的欲望は、長い間教育の場ですら、なきものとして扱われてきた。BL愛好者の欲望は猶更である。

女性の性的主体性が抑圧されてきたという以外にも、実被害として、女性が加害者となる性被害が、男性が加害者となるそれに比べて少なかったことなどがこの背景としてあるだろう。
身体的にも女性は優位ではないため、脅威ではないと見做されていたからかもしれない。

しかし、肉体的な性暴力ではなく、「性的消費」という観点では、女性が男性に与えうる被害は無視できない。
今後ますます男女の賃金格差が是正されていくのならば、女性が消費者として力を持つことが予想されるので、猶更である。

「アイドル」などの職業的文脈を差しはさまずに、世間に登場した様々な職業の人を「美人過ぎる〇〇」「イケメン〇〇」といったルッキズムの文脈に落とし込み、性的消費財に変えてしまう習慣に、もうしばらく前から男女の垣根はない。
そしてこの「男性を性的に消費する女性」の群れに、今度はBL愛好者の女性が加わる。

かつて女性幻想を含む作品が全く問題視されず、「ポルノ」ではなく「芸術・文化」として取り扱われてきたように、BL作品が堂々と文学賞を取り、男性役者は「BL営業」をするのが当たり前とされる未来も遠くないかもしれない。

今でもそうした傾向は如実に現れつつあるが、このままの勢いだと、むしろそうしないことで、女性排除的だと批判されることになる──というところまで行くのではないかと感じている。

暴力的でグロテスクではあるが、お互いへの搾取を許容し合うという奇妙な形で、男女平等がついに達成されるという見方もあるだろう。

しかし、その平等は正義といえるのだろうか?
もっと個人的な感覚に落とし込むのなら、その世界で私は幸せになれるのだろうか?

閑話休題。ここまであえて、BL作品の読者を女性に限定してきたが、男性の読者が存在しないわけではない。作者も同様である。
また、BL愛好者とはいえないものの、女性発信の文化としてBLを尊重し、理解しようとする男性編集者や文化人も散見する。アイドルや俳優の自己プロデュース力も上がり、なるほど彼らは自分たちの「お客さん」である女性のニーズを理解して、その欲望を許容してくれる。
こうした、「BL/男性の性的搾取に理解を示した」側の男性が、旧来の男性社会に属する男性から「名誉女性」と揶揄されるところを想像する。

長きにおけるジェンダーロールの固定化が、後代の女性に与えた最も大きな負の遺産は「世代間の分断」、もしくは「フェミニストとそれ以外の女性の分断」であると言っても過言ではないだろう。未だ、解決まで遠い道のりが予想されるこの分断を、男性側にも与えることが、本当に過程として必要だろうか?

全ての職業の人が、性別問わず「平等」の名の下に、自分の肉体と精神が他者に性的に消費されることを許容する社会が、理想的といえるだろうか?

そんな未来を回避する一つの手段として、「BLは隠れるのが当たり前」という時代に回帰することを考えた。自分一人がやったところで周囲の動きは変えられないだろうが、かつての自分への罪悪感のような居心地の悪さは軽減できるかもしれない。

ただそうして「隠れる」、自ら「なかったことにする」で私は、「BLを求める自身の欲望が一体どういうメカニズムで湧き上がってくるのか」という問いに対する答えを得る機会を永久に失うだろう。
そして未来に同じような疑問に直面した子供も、自分と同様、鬱屈とした気持ちと葛藤を抱えて思春期を過ごすことになるのだろうか。冷静に考えたらBLに萌えるのはおかしい、気がする。だってどうして自分がそれを求めるのかわからない。だけど周囲の大人はそれでいいんだと言っている。自分の心と体のことなのに、私は私がわからない……そんな感覚を常に抱いて、孤独に。

そういうことを考えると、少しのヒントとしてネット上にこんな文章も遺しておきたくなる。飛び降り自殺の予定はないけれど。

二階堂奥歯は、2003年4月26日、まだ朝が来る前に、自分の意志に基づき飛び降り自殺しました。このお知らせも私二階堂奥歯が書いています。これまでご覧くださってありがとうございました。
『八本脚の蝶』二階堂奥歯


1本の記事を書くのに大体2000~5000円ほどの参考文献を購入しているので完全に赤字です。助けてください。