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monochrome set

今、和服を来て街を歩くのは特別なときくらい。日本人なのに強い「和」の要素をみるとどこかエキゾチックな感じがする。昔々に西洋化を進めるにあたって、少しずつ衰退していったイメージ。その辺の詳しいことはちょっと分からない。

職人の後継者不足という話を聞いたことがある。陶器とか器とか工芸品を作っていく中で、誰にも真似できないような圧倒的な細かい技術をもってして造形美を極める。個人的に伝統工芸品にはそんなイメージがある。工芸品とは言え、当時は生活をしていく上で必要な道具だったわけで、それらが工業化に伴う大量生産・大量消費へと向かっていく中で、この伝統は衰退していった。最高傑作を作るために最高の道具を使う職人とその最高の道具を作る職人。どこかの工程が欠けてしまうと、一つの作品は完成しないという話も聞いたことがある。

何かを成し遂げるためには多少の犠牲はつきものだとはよくいうが、もし文化・伝統を重んじるお国柄であれば今も「和」なものはこの日常に生きていたかもしれない。今、「和」を見ても異国情緒漂う、昔の古き良きニッポンの文化程度にしか僕は思えない。一度、日本の文化を日本が忘れてしまっていたとしたら。

この自粛ムードの中でエンタメ業界に矛先が向けられるのもきっと自然な流れなのかもしれない。

政治や経済のことはわからない。

ただひとつ、何年か前にフランスのアートフェスへ行ったときのこと。僕は写真の展示ブースで運営の手伝いをしていて、展示してある作品を見に来たお客さんと作家をつないだりしていた。まず、来るお客さんの9割近くが展示されている作品を見ながら意見を交換しあっていることに感動。素通りする人が少ない。見るときはしっかり見る。英語が堪能なわけでもないし、世界各国から集まるので全く聞き取れない言語もある。ただ、なんとなく感想を言い合っているんだろうな、というのはさすがに見ていてわかる。一組の親子が写真集を手にとった。多分、小学校低学年くらいだろうか、女の子が素手で写真集をめくりはじめた。それを見たお父さんは、まず手袋をはめること、この写真集は絵本ではないということ、ページは破れないように優しくめくること、などなど。お父さん流の作品の鑑賞の仕方、作品へのリスペクトの示し方を我が子に教えていたように見えた。まず、ここで僕は初めて日本と海外のアートに対する教養の違いを感じた。

僕自身、和服を見ても古い日本文化くらいにしか思えないのはそういう刷り込みがあるからで、なんとなく勉強>教養のような仕組みの中で生活していたような気がする。受験勉強して試験に合格すればいい学校に入れること。いい資格を持っていれば就職に有利であること。その資格を得るための学校とそこに入るための高い入学金と授業料。この資格産業ともいうべき枠組みの中で、文化というのもはとても曖昧なものになってしまう。文化芸術の灯火を消してはいけないとはいえ、結局このシステムの中で見た時の文化なんて、「資格」の様に何かを保証されたものに比べたら後回しになるのも仕方がないのかもしれない。

芸術がどれほど大事なものだったかはもう何世紀も昔の話、政教分離されていない時代まで遡る。一つの(宗教)国(家)にとって、一つの(神を崇めた)作品は自分の国がどれほど栄えているかを誇示するための、なんてことはもう前に書いた。

社会や経済のことはわからない。

ただ、写真を撮るうえで今自分が生きている時代を知っていなければならないと思っている。シャッターを押すだけしかできないのだから、多少の教養がないと「写真をやっている」とは言いにくい。写真を撮りたいというか、写真をやっていたい。

禁煙生活3日目。
企画書の【目的】に書いてある3行程度の文章を理解するのに20回は読み返した。自分のHPも久しぶりに手を入れた。日記を毎日綴ろうかと思ったがなんとなくnoteの方がいいのかもしれない。

2020.4.3

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