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NOTES X

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フォトグラファーなのにFPSが得意ではないということが最近抱えているコンプレックスかもしれない。写真から少し離れたくて時間さえあればコントローラーを握って僕は戦場に立つ。フォトグラファーなのにというのは、ソンタグ曰く、人はピストルからカメラに持ち替え、スコープを除く代わりにファインダーを除き、弾を装填する代わりにフィルムを交換し、引き金を引く様にシャッターを切ってきた。これもまた極端な話、銃口を向ける代わりにカメラのレンズを向けるようになったと言い換えることもできる。僕が実際に指をかけるのは引き金ではなく、R1ボタンだ。ただのゲームのコントローラーだが、画面の中では擬似的に銃を構えていて、僕はカメラからピストルに持ち替えてしまった。写真から離れたいのに、ゲームの世界にいながら、以前、写真論のバイブルと呼ばれる著書の中で読んだキーワードが頭によぎってしまう。写真は暴力性を孕んでいる。

写真は世界の断片を収集し、オリジナルの移動も保存も容易にできるものであって、極端な話、フィルムでもセンサーでも記録した以上は、撮った人の所有物になってしまう。誰のものでもない目の前の景色(被写体)は、不特定多数のカメラを持ち歩く群衆の共同所有物になりえる可能性があるということだ。簡単にまとめると、俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの。(肖像権がどうとか、所有権がどうとかはここでは置いておいて、あくまで個人の日記というだけで、僕、個人の写真論を展開したいわけでも何かを喚起したいわけでもない。)写真に孕んだ暴力性は日に日に増していき、最新のデジカメは拡大すると肉眼でも近寄ってまじまじと見ない限り気づくことのない産毛やシワまでもさらけ出してしまう。そんな暴力性を秘めた写真はソンタグよろしく、告発もすれば神聖化もする。これは、宗教国家としての権威を象徴、あるいは高めるための絵画を、より写実的に描くための道具「カメラ・オブスキュラ」としての役割から、像を映し出すだけに限らず、像を定着させるまでに至った写真の歴史を遡っていくと全て納得がいく。

戦後、写真はプロパガンダとして国民を洗脳するための役割を担うようになった。そこから写真をバラバラに切り抜き社会風刺をテーマにしたコラージュ作品が生まれたり、作品の中に意味を持たせないダダが発足したり、写真以外の分野でも様々なカルチャーが派生した。いわゆるペルエポックを通り過ぎ、写真はプロパガンダとして演出したイメージを作り上げることに抵抗を示した先人の写真家たちによって、また新たな時代を迎える。支配国家のもとに活動していた当時の写真家はそれぞれの意思を報道写真という形で発表していった。国策プロパガンダとしての写真は国の強さを誇示するための演出写真として、この流れのある種のカウンターがストレートフォトグラフィというジャンルを確立させた。非演出の絶対的リアルな写真を撮り集め、メディアとしての役割を与えられる。戦争を肯定する気は全く無いということを大前提に戦後、あらゆるカウンターとして生まれたカルチャーは今でも色濃く残る。ジャーナリストとして見てきた景色を写すというのは、起きていることを外から見つめる客観性と一人の写真家として世の中を見つめる視点、つまりは主観性に重きを置くようになる。ストレートフォトグラフィは写真にしかできない、写真独自の表現を求めて、芸術としての地位を確立させるための動きが強まってくる。そして、写真には個人の内面を写し出すことができるのか。写真を噛み砕いて分解して、再構築をしていく、あらゆる可能性を探り出したのが、おそらく今から半世紀ほど前のこと。写真を撮り始めて数年の僕からしたら分からないことだらけで、ましてや今もなお現役で活躍されている方々ですらわからないのかもしれない。世の中の出来事をさらに細分化し、誰でもない個人の日常の記録が溢れ出し、写真はいったいどこに向かうのか、かつての先人たちの跡を追うかのように、例に倣って写真を撮り、見返してみる。

楽器を初めて手にしたとき、大抵はまず既存の曲のコピーからはじまる。学生の頃、初めてギターを買ったとき、当時聞いていた好きなバンドの曲のコピーから始まって、そのまま僕の楽器ブームは終わってしまった。カメラを初めて買ったときは好きな写真家のコピーから、なんて意識もまったくなく、ただ適当に自分の身の回りの生活を切り取るだけにすぎなかった。多分、音楽に触れた延長に写真があって、その影響かなんなのかは正直自分でもよく分かっていないが、写真と音楽を重ねて考えることが多い。写真でいうところのオリジナルは何なのか。今や一人一台のカメラを毎日持ち歩き、誰しもが日常的に写真を撮る中で、写真のオリジナリティというものはもはや存在しないし、むしろオリジナリティという概念すら当てはまらないのかもしれない。コピバンのように誰かの写真作品を模倣して撮るということは、あくまで手法のみを模倣し、結果として類似した写真になるだけであって、他の作家のコピーとは言えない。かつての先人がやってきたアプローチを辿り、それぞれの視点で切り取ってみる。そもそも写真を撮るということ自体が複製であり、目の前の景色(被写体)を像として定着させた複製品と、他人がすでに撮影した同一風景(被写体)といった二重の複製性がはらんでしまう。つまり、写真はそもそもコピーでしかない。どれだけ個人の内面や切り取ったものとの関係性を形にしようにも、それは言葉に依存してしまう。記号と内容は切っても切り離せない関係にあり、像として記号化された写真とそれを補足する言葉もきっと切り離せない関係になる。上の写真とこの長い文章もそう。この写真に対する解説文にはならないが、一度オールドスクールに立ち返ってみるという言い訳としては成立しているはずだ。

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