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学芸員は腕時計をつけない。

今、自宅の棚の上には三本の腕時計が並んでいる。今朝、いつも身につけている腕時計をつけて出勤しようとしたときに、ソーラー電池の腕時計が止まっていることに気がついた。しばらく、外に出していなかったから電池が切れたのだろう。

学芸員は腕時計をつけないと聞いたことがある。作品の搬入出や展示物を管理する際に額などを傷つける可能性があるからだという。本当かどうかは分からないが、なんとなく納得がいく。大学を出て就職をした友達が最初に買ったものは高級腕時計だった。何十万とする時計だったが、この先、毎日つけることを考えたらそんなに高くもないし、社会人としてなんとなく箔がつくとのこと。僕の場合、大学を卒業する前に長く続けていたアルバイトもやめて、就活どころか、卒業後もしばらく定職につかずにいたので、そんな高価なものを買う余裕がなかった。男性にとって時計と靴はステータスになるというのは正直もう古いとは思いつつ、自分の中でもなんとなくは感じていた。時計は時間を知るための道具という当たり前のことではあるが、それが日常においてかえって邪魔になることもあれば、自分の価値を高める装飾品としての役割もあるのだ。

ポートレートは家族や学校行事で撮った集合写真の様な記念のためのものから御真影として崇拝の対象まで多岐にわたる。写真というか、カメラは絵を描くために目の前の景色を投影させるためだけの道具からその像を定着させるまでに進化した。カメラは絵を描くための道具にすぎず、定着して得た画像(写真)は絵を描くための素材として売買されていた時代もある。また、犯罪者を記録するための司法写真でもあり、医療の世界でもレントゲンや胃カメラなど身体の健康状態を示す証拠写真としても使われる。とはいえ、写真はそこに写るものが真であるとは限らない。真でもあれば偽でもある。例えば、90年代に流行したプリクラも写真に分類される。見た目よりも綺麗にみせるため、いわゆる盛れる加工がすでに反映された状態で仕上がってくるし、レストランのメニュー写真も撮影時にあらゆる手段を使って、実際に提供される料理よりも若干見栄えが良かったりもする。ここでいう真偽は見た目に限った話だ。

僕からするとどの空間であっても、会う約束をしない限り出会うことのない人との時間は自然ではない。例えば、映画館は不特定多数の人と1つの映画を見るという同じ目的のもと集まる場所であって、僕が映画館に行って隣がはじめましての人だったとしても、そこに違和感はない。ところが、僕がはじめましての人を撮る、となれば撮影という行為によって、見ず知らずの人と僕は見る、見られる関係になってしまう。もちろん、これははじめましてではなくても、誰であっても共通して必然的に見る側と見られる側に分かれてしまう。僕が見るということは、自分が相手からも見られる立場にある。何が言いたいのかというと、特定の誰かを撮るのは自分と相手の関係性が関わってくる。そして、関係性というのは写るようで写りきらない。僕とその人が初対面なのかどうかはその1枚では分からない。自分と相手の間にカメラを挟むことによって、その関係性は曖昧なものになってしまう。もしかすると家族、あるいは恋人、これは写真に添える言葉に依存してしまう。

数年前、女の子のポートレートを撮り始めたとき、女の子を消費しているようにしか思えないと言われたことがある。僕が撮っていた写真がそういう風にみえたとかいうわけでもなく、ジャンルとしてあまり好きではないとのことだった。ポートレートといっても更に細分化された界隈があるが、水着を着用した露出の高い女性が表紙を飾るような雑誌を喜んで見るのは一般的に男性の方が多い。そういった男根主義的なグラビア写真を想起したのかもわからないが、それを男性による女性の性消費として嫌悪感を持っていたのかもしれない。性別による優劣はないと個人的には思っていても結果的にそう見えてしまうこともある。性別の概念は生き物だけではない。生物学的な性の他に「彼」、「彼女」といった三人称の使い分けや、日本語にはあまり馴染みがないが、言語によっては固有名詞でも女性名詞、中性名詞、男性名詞に分類できるものもある。これが言語学的な性。男らしさや女性らしさといった世間が抱く性別ごとの役割に対する思い込みは社会的性。これらの性別に対する考え方が表立ってきたのがつい最近の出来事だ。この様ないわゆるジェンダー論について教養をつけようにもそこまで深堀りする気は正直ない。こういったことは本来、生半可な知識で口にするものではない、ということでこれまで言及することは避けてきた。だけど、僕は物書きではないし、ここはインターネット。そこまで気を負うこともないのかもしれない。

肌の露出が多いということが悪であるとするのなら、裸婦が描かれた西洋絵画はどういう説明ができるのだろうか。どこまで遡ればいいのかわからないが、ルネサンス期の美術は彫刻、絵画あらゆるところで裸が一つキーワードとして思い浮かぶ。僕はこの筋の専門家でもなければ、美大出身でもない。どこかで専門的な教育を受けたわけではないので、ここからは僕個人の憶測とどこかの本で読んだ曖昧な記憶をひねり出す。

ルネサンス期は古代ギリシア・ローマへの回帰がテーマだったような気がする。宗教上、裸はアダムとイブが罪悪を知る前の状態で、純粋無垢なものとされた。つまり、裸であることが最も神聖な姿で、服を纏うことが世俗的ということだ。欧州の作品は女性の裸だけを描いていたわけではない。ダビデ像はじめ、他にも多くの男の裸像が存在する。性別に関係なく裸であることが神の権威を象徴するという意味合いがあった。キリスト教は肉体と精神を切り離して考えることはなく、筋肉質であること、ふくよかであることを肉体美とし、肉体が美しければ、精神もそれに伴いよしとされた。宗教上の話でもってヌードを肯定しているわけではないし、前述した様に巷で囁かれるような社会的性に抱く固定観念を肯定したいわけでもない。あくまでその当時の考え方をここに引用しているだけ。ミケランジェロの「最後の審判」もルネサンス期に描かれた作品とされているが、すでにこの時代で裸に対する抵抗もあったようだ。裸であれば神聖というわけでもない。描かれている人物の多くが服を身に着けておらず、そこを批判する者もいた。ミケランジェロの死後、服の描画が追加されたという話も聞く。ミケランジェロがここまで裸であることに執着したのは、彼が生粋のプラトニストだったからとされているが、イデア論に関してはかじってもいないほどの知識のために割愛する。この時代、芸術家のパトロンの多くが貴族であったように、この種の西洋絵画は本来、教養のある知識人のために描かれたものであって、俗世的には今で言うところのポルノを見るようだったともいう。

そして、日本で古くから信仰されていたのは仏教であるが、仏教はキリスト教と違って、肉体も精神も実在しないものとされている。諸行無常というやつだ。つまりは、裸であることが神聖な姿であるという説は通用しない。ヌードに対する価値観を宗教上の違いとするにはいささか無責任のような気もするが、時代の流れによってあらゆることの価値観は変わっていく。今で言うところの多様性という概念はなんとなく狭い範囲の中で当てはめられている。自分とは違う価値観を持つ他人を受け入れるといってしまえばシンプルにおさまってしまうが、それはちょっと危険な気がしてならない。例えば、「不思議の国のアリス」の著者、ルイス・キャロルは作家でもあれば、写真家でもあり、数学者、論理学者でもある。他にも肩書きはあって、世間とコミュニケーションをとるための媒介は文章でも写真でもいいというのが多様性だ。彼の作風から見ても、未成年の少女のヌードを撮り続けた小児性愛といった、精神分析学という観点からも話を続けることができるが、話が逸れてしまいそうなのでいったん戻す。
(※彼が影響を受けたのはルネサンス期とは別の時代だが、この件に関しても神に近い純粋無垢な存在として少女の裸に執着したと言われている。また、長い間小児性愛者ではないかと推測されていたが、後にそうではないということが証明された。)

分野をまたいだ広義の部分、ここでいえば、ジェンダー、宗教になるだろうか。ルイス・キャロル一人を例にしてみても、数学、哲学といった学問から文学、写真術といった文化的教養まで、あらゆる分野をまたいでいることが多様性というだけで、「◯◯てもいい」という言葉の使い方に多様性をはめこむのはよく考えなければならない。

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