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性と呪殺の密教
『性と呪殺の密教』 正木晃 2016年7月刊 ちくま学芸文庫
本書、チベット密教についての書物となります。副題には「怪僧ドルジェタクの闇と光」とあり、1020年代に生まれたとされ、チベット密教史上に大きな影響を及ぼしてきたドルジェタクという僧の生涯に焦点をあて、チベット密教の神髄に迫ります。
チベット密教とは主にチベット人仏教者たちが伝承してきたチベット土着の信仰とインド仏教界で生まれた後期密教が混ざり合った教義の一種ですが、チベット密教といえば、まず、我々が思い浮かべるのは、現チベット亡命政府の指導者、ダライ・ラマ14世その人ではないでしょうか。
チベット仏教界の最高指導者といわれるダライ・ラマは転生活仏ともいわれ、その魂は代々生まれ変わりを繰り返し、ダライ・ラマが亡くなると同時に誕生した子供を次のダライ・ラマとして後継していくシステムが現存しているときいたのが、ダライ・ラマ14世および、チベット密教に興味をもつきっかけとなりました。
しかし、本書を読み知ったのですが、チベット仏教界は多種多様で、ダライ・ラマもチベット仏教の一宗派の一つであるゲルク派の出自であり、他にもニンマ派、カギュー派、サキャ派など、多数の宗派があり、その教えや形態も異なっているのです。
そして、本書の主役ともいえるドルジェタクですが、どの宗派にも属しておりませんでしたが、その力量、行いからどの宗派にも多大な影響を与えてきたのは本書を通じ、よ~くわかりました。
ただ、その業績や思想、悟りにいたるまでの修行方法は他の宗教には類をみないものばかりで、一言でいえば、「巨大な混沌」であり、読んでいて眩暈のするものばかりでした。
しかし、それはドルジェタク一人にあてはまるのではなく、ドルジェタクを生み出したチベット密教そのものにであり、人のよいおじいちゃんにしかみえない、ダライ・ラマ14世の背後にもこれほどの光と闇、混沌が広がっていたかと思うと戦慄するばかりでした。
本書によるとドルジェタク、そして、チベット密教を語るにあたって、外せないものが「瑜伽」と「度脱」となっていました。
「瑜伽」とは性ヨーガのことで、男女の交合、セックスを行法として取り入れ、性行為の歓喜が心身の力を極限まで高め、究極の智慧をもたらすとされています。
そして、「度脱」とは呪殺のことであり、呪法をもって不正義の人を呪い殺し、浄土に送り届けるといった思想に基づく一種の殺人行為ともいえるのです。
この「瑜伽」と「度脱」のエキスパートがドルジェタクであり、この二つの影響を受けていないチベット密教はチベット密教ではないとのことでした。
ほとんどの宗教で、女犯と殺人は禁忌とされていますが、チベット蜜教においてはどうやら、そうではなかったようなのです。
日本においても、真言立川流や最近ではオーム真理教など、この「性瑜伽」「度脱」に近しいことを行っていた団体もありましたが、チベット密教はスケールが異なっておりました。
中には墓場での殺人、乱交、少女との交合まで及ぶ行法もあり、私の知る仏法とはかけ離れたものばかりでした。
しかし、その「瑜伽」と「度脱」の卓越したエキスパートであったドルジェタクですが、とんでもない破戒僧だったのかというと、そうとも言えず、玄奘三蔵も学んだ当時のインドの最高学府ナーランダ大僧院にて当時最高峰の仏教理論を学んだインテリでもあり、チベットに帰ってからも弱者、貧民の救済、仏典の翻訳、寺院の建立などに多数、取り組む篤志家としての側面も存分にあったのです。
ドルジェタクの持つ魅力はチベット仏教の持つ魅力、いや魔力と言い換えてもよいかもしれません。
正直に言えば、衝撃は大きかったですが、現代の無味無臭の宗教と比し、ある意味、非常に魅惑的な宗教にも感じてしまいました。
マルクスの「宗教は民衆のアヘンである」という言葉も久々に思い出しました。
また、後にチベットに侵攻してきたモンゴル帝国が逆にチベット密教のとりことなり、王室をあげて、その信仰に帰依、多大な喜捨を行っていたという史実からもその魅力は伺い知れるかもしれません。
しかし、本書を読み終え、本レビューを書くため、改めてもう一度読み直したところ、湧き出てきたのが、このチベット密教の魅力は他の宗教もかつて持っていたのではなかろうか、という一つの考えでした。
原始キリスト教をはじめ、空海が日本にもたらした密教においても、性や呪のパワーが多分に秘められいたのではと思うようになったのです。
「性」の力はいわば「生」の力でもあり、「呪い」の力も言い換えれば「祈り」の力とも言えます。
現代の魅力亡き宗教はそのまま「生」や「祈り」の力が失われつつあるといってもよいのではないでしょうか。
私自身、特定の宗教に帰依しているわけではありませんが、性欲、性エネルギー、また祈りや呪いといった人の想念を無視して、生きてゆくことはできません。
本書、「人にとって性とは?」「人を殺すこと、活かすこととは?」を考察する上での新たな視点をもたらしてくれました。
そして、チベット、一度、行ってみたくもなりました。
「三界の狂人は狂せることを知らず 四生( ししょう)の盲者は盲なることを識(さと)らず 生まれ 生まれ 生まれ 生まれて 生のはじめに暗く
死に 死に 死に 死んで 死の終わりに冥(くら)し」 空海
人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ。