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考える脚

『考える脚』荻田泰久 2019年3月刊 KADOKAWA 

著者は北極圏を中心に単独歩行による冒険を生業とする40代の男性となります。

大学中退後、自分探しの初の海外旅行でカナダへとゆき、そこから、北極を中心とする極地に魅せられ、冒険家の道を歩むこととなったそうですが、その極地での冒険行が本書の内容となっております。

極地での冒険の熾烈さは、南極点到達を懸けたアムンセンとスコットの逸話より、何となく知ってはいましたが、本書の著者が行っている単独歩行の厳しさはまた、別ものであると本書を読み、感じました。

著書が行っている単独歩行というものは、当然なら、犬ぞりもスノーモービル使用せず、また、無補給で実施するため、目的地到達までに要する食糧やテントなどの装備品をすべて自ら、ソリを引き、運搬してゆかねばなりません。

その重量は100kgを超え、目的地によってはソリの台数も2台となることもあります。

氷上であるから、摩擦も少なく、それほど大変な作業ではないであろうと一見、考えられそうですが、著者のゆく北極海では海水の流れに応じて氷同士がぶつかり合い出来た、山のような乱氷帯がそびえたっているので、100kg超のソリを押し上げ、引き上げ、その乱氷の一つ一つを乗り越えてゆかねばならないのです。

他にもホッキョクグマの襲来や不安定な海氷の崩壊等、危険は枚挙にいとまがありません。

北極は南極と異なり、大陸はなく、海上にあるため、限られた時期に凍結した氷上を歩行することとなります。また、その安定性も天候や海流によって刻々と変わるため、一瞬の気のゆるみも許されないのです(もちろん、南極にクマは生息しておりません)

実際に北極を中心に冒険を重ねてきた著者が南極点無補給単独歩行に挑戦したところ、予定通りに南極点まで到達し、実に簡単な冒険であったと語っていました。

むしろ、風景も特に変わらず、退屈でウォークマンで音楽やオーディオブックを聴いていたと聞き、笑ってしまいました。

反面、北極ではホッキョクグマの気配に神経を凝らし、常に動く氷の音に耳をそばだてているため、何かを聴いている余裕など全くないそうです。

しかし、何より過酷なのは食料の部分ではないでしょうか。

飛行機による食料等の輸送補給を行わないスタイルでの冒険を選択している著者は必要最低限の食料のみソリに積み込むわけですが、ブリザードなどの荒天により一日中、テントの中で過ごさねばならない日が増え、食料の備蓄は減ってゆくと、冒険を続行する限り、日々の摂取量は減らさざるえないのです。

飢えが極まり、自分の排泄物を食すか逡巡するシーンは大変、切実でした。

また、著書の別の著作『北極男』では空腹感にさいなまれ、ホッキョクグマを殺して食べようかためらうシーンもありました。

結局、ホッキョクグマは食べずに終わるのですが、その後、ジャコウウシ(北極圏を中心に生息する大型の草食動物)の群れを見つけ、捕らえ、解体し、食べていました。

忘れられないのが、ちょうど、子ウシを産んだばかりのジャコウウシの母親を撃ってしまい、母親を殺された小さな子ウシが著者に向かい、突進してくるシーンにはなんともいえず、言葉を失ってしまいました。

しかし、そこまでして冒険を続ける著者の思い、考えとはどのようなものなのでしょうか。

本書の中で、著者は以下のように語っていました。

「旅とは努力で行うものではない、憧れの力で前進していくのだ。まだ見ぬ世界への憧れ、広い世界に触れた見知らぬ自分自身への憧れだ。歩くことは、憧れることだ。そこに行かなければ出合うことのできないものに出合うために、私は歩いていくのだ」

極地に行くことが旅であり、冒険ではなく、我々の日常も憧れをもって生くるならば、それはひとつの旅であり、冒険であると言っているように感じてなりませんでした。

さて、最近の著者ですが、新しい旅、新たな冒険を企てているそうです。

そして、今度の冒険は単独行ではなく、自分だけの自己満足を徹底的に行うことで得た力を、誰かのために使うことで、意味や価値を生み出していくと語っておりました。

著者のこれからの活動が楽しみでなりません。

私も憧れの力を信じ、日々を歩んでいきたいと改めて思いました。

『私の夢は、死ぬ間際まで輝いた目をして生きていくこと』  大場満郎(冒険家)






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