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モーツァルトは「アマデウス」ではない

『モーツァルトは「アマデウス」ではない』石井宏 2020年2月刊 集英社新書

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の名を知らぬ人はいないと思いますが、本書を読み、当人は生前、「アマデウス」と呼ばれたことも、名乗ったこともなかったことを知り、驚嘆しました。

モーツァルトが生涯使い続けたのは「アマデーオ」であり、この名前も生まれた時より持っていた名ではなく、14歳の時に、当時ヨーロッパの音楽の中心地、本場イタリアへの演奏旅行の際、そのモーツァルトの神童ぶりに熱狂し、絶賛した現地の人々、新聞が「アマ(愛)デーオ(神)・モーツァルト」とほめたたえ、気に入ったモーツァルトは終生、その名を使い続け、「アマデウス」と名乗ることはなかったそうです。

著者はモーツァルトの残された書簡、作品の多くにあたり、「アマデウス」とドイツ語で表記された署名がひとつもなかったことを突き止めます。

モーツァルトの署名はすべてイタリア語の「アマデーオ」もしくは略称の「アマデ」となっており、このイタリアでもらった名前に特別な誇りをモーツァルト自身が持っていたことをうかがわせます。

しかし、何故、ザルツブルグからウィーンとその生涯のほとんどをドイツ語圏で暮らしたモーツァルトがドイツ語表記の「アマデウス」を生涯、名乗ることがなかったのでしょうか。そして、後世の人々は何故「アマデウス」と呼ぶようになったのでしょうか。

本書はその謎をめぐり、モーツアルトの生涯を追っています。

なお、余談ですが、当時、ヨーロッパの各国は音楽の中心地であったイタリアより多くの歌手や音楽家を高額な報酬で宮廷に雇い入れ、劇場を運営することがその国の文化レベルの象徴とであると同時に経済力、国力の証としていたそうです。

なかでも、イタリアのナポリとヴェネチアは歌手の一大生産地であり、多くの歌い手をヨーロッパ中に輸出していたそうです。ナポリとヴェネチア共に港町であったため、娼婦、娼館がひしめき、そこで産み落とされた孤児たちに職業訓練を施す音楽院を兼ねた孤児院があったからとのことでした。(あの「四季」で有名なアントニオ・ヴィヴァルディもその音楽院の教官で孤児たちによる演奏会の為に多くの曲を書き記したそうです)

また、そのイタリアで絶賛されたのですから、モーツァルトの天才ぶりは尋常ではなかったのでしょう。

しかし、その14歳時のイタリア演奏旅行後のモーツアルトの生涯ですが、はたから控えめに見ても、幸せであったとは言い難いものでした。

その早すぎる死や貧困にあえぐ借金生活等の話は有名ですが、なぜそのような生活をせざる得なかったのかが本書には記されておりました。

残された作品の華麗さや天衣無縫さとは相反し、本書では天才の悲しさ、不遇が際立ちました。そんな中、どうしてあれだけの名曲を生み出せたのか本当に不思議でなりません。

なお、本書で初めて知ったのですが、モーツァルトはピアノ演奏だけでなく、バイオリンの演奏も名人級で、僅か13歳にしてザルツブルグの宮廷オーケストラのコンサートマスター(指揮者の意図をオーケストラに伝える第2の指揮者ともいえるポジション)に就任しています。

しかし、ある時よりそのヴァイオリンの演奏自体を自ら生涯にわたって封じてしまうのです。

そこに天才の天才たるゆえん、哀しみを感じずにはいられませんでした。

本書にて確かめていただければ何よりです。

ちなみに我々の知る最も有名なモーツァルト肖像画(バーバラ・クラフト作)ですが、こちらもモーツァルトの死後、想像で描かれた画であり、実際の姿を描いたものではないとのことでした。


もの言わず ものも思わず 愛のみが 心に湧きて さすらいの こどものごとく 遠く行かんか (アルチュール・ランボー)






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