オマエはオマエの祭りを探せ
来年、東京にオリンピックがやってくるが、心から待ち望んでいる人、楽しみにしている人はどれ程のものなのだろうか。
自分の周りでは特別に楽しみにしている人は、それほどおらず、居ても楽しみにしている映画が封切られるくらいの熱量なので、オリンピックもエンターテイメントの1コンテンツとして、消費され、あっという間に過去のイベントととなっていくのだろう。
オリンピック熱を煽るマスコミも煽られる大衆もどっちもどっちで、自分はその両方ともに好きではないという事ははっきりしている。
なぜならば、美しさがないからだ。
競技に励む選手やそれをサポートするコーチや家族、仲間たちの姿には心うたれることが多い。
しかし、それ以外の観客やマスコミ、関係者たちの姿の多くは醜悪だ。
何をもって美しさというのか、難しいのだが、彼らの振舞いの多くに、美意識や美学が感じられないのだ。
観客に対していえば、その競技や選手を本当に応援しているのか?いや応援までいかなくともよい、本当に興味や関心があるのか?ただイベントに乗じて、バカ騒ぎしているだけではなかろうかという人々をオリンピックやワールドカップの都度に目にし、辟易する。
マスコミや関係者たちに対しては、もはや言わずもがなであるが、視聴率や利権の獲得、自己の立場の保身が透けてみえ、こちらも美しくない。
始まるまえから、一連の空虚な美意識の欠片もない、盛り上がりをみていると、どんどん冷めて、白々しく感じているのは、自分だけではないのではなかろうか。
昨日、夕飯時にたまたま、目にしたラグビーワールドカップの日本のスクラムには感動した。
結局、試合の最後まで見続けてしまったのだが、次回の試合まで見るかどうかは分からない。
ただ、あの試合を見ていて思ったことは、全力を出し切る姿は本当に美しく、かっこよいだ。
だから、俺も全力を出し切ろう。
日本チームを全力で応援することは自分にはできない。
ただ、自己の生活を全力でまっとうすることは自分にはできる。
他人の祭りで踊りたくはない。踊れたとしても自分の祭りで踊るほどの充足感はないだろう。
他人の祭りもいいが、まずは自分の祭りでしっかり踊ることから始めたい。
おいオマエ 踊らされるな 祭り見て テメエの中に 祭りを持てよ
人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ。