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陰翳礼讃

『陰翳礼讃』谷崎潤一郎 中公文庫

本書、1933年に谷崎潤一郎によって書かれた「美」に関する随筆です。

谷崎は「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある」と論じています。

また、東洋の美と西洋の美を比較し、東洋、特に日本では何でもない所に陰翳を生み出し、美の創造にあたってきたとしていました。

特にそれは日本家屋の薄明り中で顕著にあらわれると述べていて、日本の漆器、蒔絵、金屏風などの美しさは或る一定の暗がりの中でこそ、映えるのであり、また、女性の肌の美しさ、羊羹の色にしても同様と論じております。

たしかに、美術館や博物館の明るい照明のもと、鑑賞する蒔絵や屏風はなんだか味気なく、白い西洋磁器に盛られた羊羹などには食欲はかきたてられません。

また、トイレに関しても谷崎は一言モノ申しており、京都や奈良の寺院の厠(かわや)を褒めちぎっていました。

何故なら、そこは青葉や苔の匂いのたちこめる様な植え込みの陰に設けられており、ある程度の薄暗さの中から眼前に青空や草木の緑、虫の音、鳥の声を愉しめる日本の厠は風流の極みとまで述べています。

また、その何処よりも不浄である場所を清潔に保つよう努め、花鳥風月と結びつけ、家屋で一番風流にできているであろう日本の厠が、タイルを張り詰め、水洗式のタンクや便器を取り付け、西洋式へと変わりゆくことを憂いてもおりました。

なお、私自身も厠という言葉はもちろん、便所という言葉すら最近、ほとんど使わず、日常では、トイレという言葉をほぼ使用していることに本書を読みながら気付き、愕然としました。

それほどまでに、われわれの生活は西洋ナイズされており、谷崎が生きた時代以上に、生活は西欧化しており、厠がトイレに変わったように、日常のなかから、陰翳は取り除かれると同時に、衛生的で、明るく、便利な世の中になっているのでしょう。

しかし、そこに美はあるのか?というのが谷崎同様、私も常々考えることでした。

街中をあるけば、どこもかしこも明るい電飾と看板に囲まれており、また店中からポップミュージックが垂れ流され、虫の声も星あかりも楽しむ隙もありません。

安易に昔がよかったとはいえませんが、本当にその過剰なまでの照明や音楽は必要なのか?と思うことが度々、あります。

昭和初期の日本の西欧化すら嘆いていた谷崎が現代の日本を見たら、何というのでしょうか。

谷崎文学はやや敬遠気味であったのですが、本書、先日、教えを受けている古武術の先生に薦められ、読んだところ、先生が薦められた意図が身に沁みて分かりました。

これは「美」だけでなく「武」も同様で、また日本人の身体、意識にいたるまで徹底的に陰翳が失われており、この陰翳を今一度、鑑み、取り戻す時期がきているのではないかということでした。

取り戻し方はまだ、分かりません。また、昔日に回帰し、同様の生活を取り戻す事とも考えてもおりません。ただ、谷崎は東洋に西洋とは全く別の文明が独自で発達していたならと本書で夢想しています。

小説家ならではの空想と愚痴をこぼしていましたが、この『陰翳礼讃』を読みながら、これより、徹底的に陰翳が破壊されつくされたその先に、新しい文明の起こりを夢想せずにはいられませんでした。


住するところなきを、まず花と知るべし(世阿弥)




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