人生邂逅 ・まなび編 ◆仏教読書会から -47
空海秘蔵穂鑰 第七章 一道無為心 より
「法華経」について次のような一節があります。
まず蓮華は泥の中に生育しますが、少しも泥に汚されずに、清らかな華を開きます。
それと同様に人々は世間の中に生活していますが、少しも環境に汚されず清らかな本性を失いません。仏陀はこうした理を示す蓮華三昧という境地を観じられたのです。
とあります。
なるほど、
蓮の花を仏の世界で象徴としているのには、このような意味があったことを初めて知りました。
泥とは似ても似つかない、色鮮やかな蓮の花は、とても象徴的といえます。
ここまでは、納得。なのですが、
後段の「人々は・・、少しも環境に汚されず清らかな本性を失いません」
は、なにかぐさりと胸に突き刺さるものを感じてしまいます。
なにか、皮肉られている(?)のではないか。と。
そうありたいと誰しも思うものの、実際はどうか?
私自身のこれまでを振り返ってみて、
そういえば、あのころはそんなこともあったような?
と。思えなくもないのですが。
ただ、それは一時的であり、それも突き詰めていくと、一点の曇りもないということはない。のです。
それでも、よくよく読み込んでみると
”清らかな本性” とあります。
わたしが、取り上げているのは”本性”ではなく、”見かけのこころ” とでもいうもので、
その根本にあるところは、清らかさを保っている。ということと解釈します
蓮根を掘り起こしたときに泥が付いているけれど、それを水で洗い流せば、きれいなレンコンが現れる。といった感じでしょうか。
ひとは生まれながらにして仏性を持っている。
ということと合い通じます。
自分自身の中に仏があり、悟りの境地が存在する。
ということでもあります。
近くて遠い存在。
とでも言えそうです。
これこそ、”空” の世界です。
分かったような分からないような・・・?
それでも、この考えはわたしにとってささやかな勇気を与えてくれます。
「本性は清らかなままであり、いつも自分の中に仏が存在する」のだと。
思い悩み、自信を失いかけたとき、こう考えると少しは気持ちが楽になるように感じます。
それでも、すぐに迷い(煩悩)の淵に呼び戻されるのですが。