濡れた未亡人、初夏のKLD物語〜ひとでなしの恋〜 第二夜
こちらの記事は、「【福岡 糸島の古着屋さん】株式会社KLDの Advent Calendar 2021」の11日目の記事です。
「じゃあ行きましょうか。」
結局、私の申し出を困惑しながら受けてくれた彼は、さっぱりしたポロシャツ姿に着替えて奥の部屋から出てきた。
「あの、ちょっと、こっち寄って欲しいんですけど…」
連れ立って交番を出たあと、彼は建物の裏を指し、私もそれに応じた。
「自分、これで通勤してるので…本当は駄目ですけど、もしあれだったら後ろに乗りますか?」
彼がまた少し恥ずかしそうに指し示したのは、少し古びた自転車だった。
後ろに少し錆びた荷台が付けられていて、一応乗れそうではあるが…
「え、公務員なのに…いいんですか?」
自転車の2人乗りは今は法律で禁じられているはず。仮にも公務員の彼から出た大胆な提案に、つい笑ってしまう。
「本当は…駄目ですけどね。」
彼も少し悪戯に笑って、なんだか少し、秘密を共有したような感じがして、胸に少し、柔らかな波が立つような気持ちがした。
彼の申し出を受ける事にし、キャリーケースを前かごに括り付けてもらい、自転車の荷台に横向きに座った。
彼の背中を初めて見た。背骨を中心に、若い男性らしい贅肉のない、しなやかな筋肉が付いているであろう事を想起させる背中だった。
少し躊躇ったが彼のお腹に軽く手を回し、出発しても問題ないことを伝える。
走り出した自転車は思いのほか安定して道を滑るように走り、家に着くまでのあっという間の10分くらいの時間を、私たちは少しだけ他愛もない話をして過ごした。
車道と歩道の境目の小さな段差を通る時の自転車の揺れに、子供のようにはしゃいで2人で笑った。何だか、こんな風に誰かと笑い合うこと自体が久々のことのように思われた。
「あ、そこです。そこの角の一軒家…」
「えっと…一軒家にお住まいなんですね?」
一軒家に一人暮らししている女というのはなかなかいない。
家を見て、もしかすると彼は配偶者、もしくは家族の存在を意識したかもしれない。
「私、あの、一人暮らしなんです。何もお構いできないんですけど…本当気にしないで入ってもらって大丈夫なので…」
自転車を玄関の横の指定した位置にとめている彼に向かって言うともなくつぶやいた。
「あ…、じゃあお邪魔します。」
あの人が亡くなってからも手放せず、今は私がたまに運転するくらいになったシトロエンがとまっているカーポートを一瞥して、彼は首のあたりを所在なさげに触りながら言った。
玄関を開け、彼を中に促すと少しためらった様子で彼は靴を脱いで上がった。
ためらっているのは本心なのか体裁を取り繕ったポーズなのか…
改めて彼という人間をほぼ知らないこと、そのほぼ知らない人間が自分の家にいるというのがひどく非現実的に感じられた。
彼をリビングに招いて椅子を勧める。
「あの、本当に急に呼んじゃって…何も用意できないんですけど。」
冷蔵庫から出した500ミリリットルのペットボトルのお茶を出して一呼吸おくと、なんだか彼も私も手持ち無沙汰になってしまった。
「パソコンいりますよね?持ってくるので待っていてください!」
逃げるようにして書斎のデスクに置いたノートパソコンを取りに向かう。
リビングに戻ると、彼が…本棚の中段に置いた写真立てを見ていた。あれはあの人の会社の買い手がついた時に2人で祝って、帰り道に気まぐれで撮った写真を現像したものだったっけ。
「あ、すみません勝手に…あの、この写真って」
「主人です。実は2年前に死別しているんです。」
隠しているのも意味がないし、いいタイミングかもしれないと思った。
そのまま私はあの人との思い出の詰まった服のこと、服を売ろうと思って今日サードストリートに行こうと思ったことなどを話した。
彼は少し眉根を寄せて私の話を聞いてくれた。
「すみません…何か」
「いえ、誰かに話したかったのかもしれません…今日売ろうと思ってたもの以外にもクローゼットにたくさんあるんですよ。本当にどういう金額で売れるのかとかもわからないし、どうしていいかわからなくて…」
「そうなんですか。あ、クローゼット見れたり、しますか?もしかしたら売れやすいものとか多少分かるかもしれないので…」
彼は遠慮がちにそう言った。でも先ほどよりも表情は明るく、私に配偶者がいないことに安堵しているのかもしれない、いや、そうは言っても彼に私がどう映っているのかはわからない…自惚れかもしれないと思う。
「本当ですか?あ、じゃあ…クローゼットはあまり片付いていないんですけど…2階です。」
あの人との思い出の詰まったクローゼットを他人に見せるということが何か不思議な気がする、でもなぜか彼になら見せてもいいのではないか…彼のことを何も知らない、彼が普通以上に他人だからだろうか、なんて漠然としたことを考えながら彼を2階に案内した。
「クローゼット、広いですね…あ、すごい綺麗ですね。整理されてる。」
クローゼットにはハンガーラックが設られていて、そこにクリーニングに出した服をハンガーでかけているものが大半だった。
こうして改めて見るとワンピースが多い。あまり服には良くないのかもしれないのだけれど、クリーニング店のビニールのかかったまま出すのが億劫でハンガーにかけているものもある。
「少し見ても良いですか?あ、マルニのワンピースですね…こっちはマメクロゴウチ、イザベルマラン…すごいですね、これはすごく高く売れると思いますよ。」
彼は子供のように目を輝かせながらラックを見ている。警察官として出会った時との印象のギャップに少し面食らってしまう。
「すごいですね、本当にお洋服詳しいんですね…私、恥ずかしいんですけど本当によく知らなくて…このブランド?のものが1番多いのかな、よく岩田屋で買っていたから…でもちょっと色が明るくて、」
「あ、マルニですね、これすごく綺麗で、」
彼の立っているラックにかかっている油彩風の花柄のワンピースに手を伸ばす、と同時に彼もワンピースに手を伸ばしていた、あ、と思った瞬間には手が触れていた。
彼の大きく少し筋張った手を思わずじっと見てしまう。爪が整えられて短い。
「あの!LINE査定っていう事前査定のサービスがあるようなんですが…それ、やってみませんか?」
彼も気まずさを感じたのか、急に不自然なくらいの明るさで新しい提案をしてくれた。
「あ…えっと、そうですね、LINE査定?ってどういうものなんですか?」
彼の短い爪をなんだか妙に思い出してしまう、霞がかかったような頭でなんとか返答した。
「さっき少し調べてたんですけど、写真と必要情報を送るだけでおおよその見積もりをLINEで送ってくれるみたいなんです。
「え、すごい…そんなサービスがあるんですね」
よく把握できていないまま、彼の促す通りにスマートフォンでKLD?のホームページを検索する。
「LINEの友達登録をする必要があるんですけど…」
「うん、それは大丈夫…だけどLINE登録ってどこからすればいいんですかね…?」
ホームページを縦にスクロールしながら見ていく。さっき触れた彼の手、短い爪のことを思い出してしまう、彼がどこを見て何を考えているかとても気になって、とても目が滑る。
ただでさえ私はこういったネットのサービス利用が得意ではないのに…とてもじゃないけどLINE査定なんて出来ないかもしれないと感じる。
「ちょっと見せてもらっていいですか?」
彼が不意に距離を詰めてきた。肩が触れる。
何故かいつもより耳が過敏になった気がして、隣から私のスマートフォンのディスプレイを覗く彼が息をしているのが聞こえたような気がした。
彼が隣から手を伸ばしディスプレイを無遠慮に人差し指でスクロールする。
若い男の子を思わせる、粗野な手つき…どう考えても無遠慮なのに、その行為になぜか今日はひどく高揚している自分に気づいた。
「ん?ここ…ですかね?今すぐ売るって書いてありますけど」
彼はスクロールしても画面に固定されたヘッダー部分の「今すぐ売る」と書かれた黄色いボタンを人差し指で、壊れ物に触るかのように少し慎重にタップした。
「んっ…、これ…は、違うみたいです…ログインって書いてあります…でも…このLINEで写真を送るだけって書いてあるの、きっとそうですよね?」
開いた画面は会員向けの申し込み画面のようだった。しかし、上部にLINE査定に促すバナーのようなものが設置されている。
今度は私がそのバナーをタップした。
私が手でスマホを持ち、彼はさっきディスプレイを触った手を迷わせたままで画面を注視している。いつの間にか手が少し触れていることに気づいてまた、おかしいほど高揚感を感じてしまう。
「あっ…あ、これです…ね、私、登録します」
バナーをタップするとそのままLINEに遷移して友だち登録画面になり、私は震える指でLINEの友だち登録を進めていく。
「…あ、より子さんって…いうんですね。」
LINEの登録名を見て彼の声が不意に私の名前を呼んだ。
「…っ…はい、そういえば、名前…まだ…」
「あ、自分は、正臣って言います…」
「まさおみ…さん…」
彼の名前を思わず反芻する。LINEの友だち登録はいつの間にか済んだようだった。KLD?からおそらく自動で配信される軽快なメッセージが届いているのを横目で見ながら私は、正臣さんの短く切られた爪のことを思っていた。
LINE査定には見積額を知りたい商品の全体像、ブランドタグの写真、内タグ(品質表示などが書かれたタグのことだそう)の写真が必要なようだった。
購入時期などがわかればそれも…とのことだったが、どれもよく覚えていないというのが正直なところで、なおかつ今は頭が痺れたようになっていてあまり考えられない…という状況でもあった。
「これ、写真撮ればいいみたいですね。より子さん、何着か送ってみましょうよ。撮れますか?」
「はい…やってみます、ね…」
売ろうと思っていたワンピースを一着手に取り、壁にあるフックにかけて形を整えた。
正直こんな状態で写真を撮り切るのは辛い、壁にかけたワンピースと距離をとって、まず一枚全体像を撮影する。
そこに写っていたのはよく見るとぼやけている、査定に使えるとは思えない写真だった。
「だめ…なんか、ブレちゃいます…手が震えてて…」
「大丈夫ですか…?あの、自分見ますよ」
正臣さんがそう言ったかと思うと、背中に暖かさを感じて、正臣さんが…後ろから私を覆うようにスマホのディスプレイを見ているのに気づいて心臓が驚くほど大きく鳴った。
「あー…これはブレちゃってますね…もう一度、撮影してみましょうか。」
「え…っちょっと…」
「より子さん、いいから」
そう言うと彼は少し強引に私の体ごとワンピースの方に向き直って、私の手に彼の手を重ねたまま、スマホを構えた。
何も言えず、思わず肩に力が入る。
背中から彼の激しい鼓動が聞こえる気がした。いや、私の鼓動が反響しているのかもしれない。身動きが取れない。
「やっ…ちょっと…だめ、正臣さん…当たってる…(肘)」
「あ、すみません…でもほら、こうしたらよく撮れますよ。」
正臣さんが私の手を取ってワンピースにピントを合わせるために指を促す。
「あっ…あっ…そこ…後ろにピント合ってる…もっと手前…に合わせないと…」
「あ、本当だ…奥にいっちゃってますね…こっちに合わせないと…」
正臣さんはもう一度私の手を取ってワンピースにピントを合わせるためにタップした。
正臣さんの手が熱く、全身に花が咲いたような高揚感が痺れを伴って背中から爪先まで走ったようだった。
また一際濃く、頭に霞がかかったようになって手元がおぼつかない。
「あ、またブレちゃってますね…もう一度、良いですか?」
膝が震えて、何だか立っているのが辛い。
「あ…ぁ…っ、もう、許して…正臣さん…っ」
「だめですよ、一気にいってしまった方が楽だと思いますよ」
正臣さんはまた私の手を取って、その時、短く切った爪が、軽く私の親指の根本を軽く掻いた。
その瞬間、私は、その手の熱さしか知覚できない存在になってしまったように思われたーー
「これで揃いましたね、送ってみましょうか。」
「はぁ…あ、はい…こういうことですよね…?」
ワンピースを一通り撮影し終わり、私は撮影した写真を全体像から順に送信した。
撮影した写真はスムーズにLINEのトーク画面に滑っていき、おそらくKLDの担当者が確認したのだろう、すぐに既読という文字が表示された。
「どれくらいで査定結果が出るんでしょうね…」
おおよそとはいえ、査定額が出るということに少し緊張する。
「どうでしょうね、混み具合なんかにもよると思うんですけど一着だけなんで早めにきたら良いですね。」
リビングに戻り、改めて正臣さんと向かい合って座ってお茶を飲む。
LINEが来るまでの間、とりとめもない話をしながら彼が28歳であること、趣味が映画鑑賞であること、一人暮らしで猫を飼っていること…などを知った。
写真を撮るためにさっき、起きたことについては何も触れず、なんだか本当にあったことなのか不思議な気がする。
彼が、最近猫が好きなおやつについて口にしかけた時、LINEの通知が鳴った。
「あ、きたみたいです、返信…」
「本当ですか?見たいです。」
正臣さんは好奇心を隠さないといった表情で、私の隣に座った。
隣に微かに彼の体温を感じて、即座に先ほどまでのことが思い出される。スマートフォンを操る指が震えた。
「え、こんなに…つく?んですね…?ちょっとびっくり…。どうして2018年に買ったものだってわかったんでしょう…?写真しか送っていないのに…」
ディスプレイに表示された金額は思いのほか高く、思わず素直な感想が漏れた。
「多分ですけど、内タグの写真を送った時にあった品番?みたいなものから見てるんじゃないかなと思いますね…でも本当、やっぱり人気のブランドだから高く買ってくれるみたいですね。」
正臣さんはそう言ってディスプレイから顔を上げてこちらを見た。図らずして目が合ってしまう。
「あ、あの…委託販売?と買取ってあるんですけど…これ、何ですかね?」
不自然なほど狼狽してしまい、誤魔化すために疑問を投げかけながら視線をディスプレイに戻した。
「あ、これさっき調べたんですけど、よくある質問のところに委託販売の記載がありましたよ。」
「簡単にいえば、売れてから金額が振り込まれる代わりに高い還元額を保証してくれるサービスみたいですね。」
「そうなんですね…どうせならこれ、やってみたいな…」
「委託販売は、実際に品物を送って、本査定?のようなものをしてもらってから選べるみたいですね。このワンピースでこれくらいの金額なら、多分他に売ろうとしていた服もきっと高く売れますよ。もし良ければ申し込みもしてみましょう。」
正臣さんはそう言うと、ごく自然に私の手に触れてきた。
「っ…!正臣さん、えっと…」
「すみません、より子さん…さっきから…我慢してて…せっかくパソコン持ってきてくれてるんで…申し込みはパソコンから一緒にしてみませんか…?」
彼の手が私の手の甲を覆うように重なって、短く切った爪が親指の先に当たった。
その瞬間、背中を走るような高揚感を感じ、私は、初めて彼を怖いと思った。
つづく
※KLDの買取申し込みはPC、スマホ(タブレット)どちらからでもお申し込みが可能です。
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