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音楽エッセイ 『月光』 ピアノ講師・高岡紀美子作品

 ある満月の夜。男が散歩していると、一軒の家からピアノの音が聞こえてきた。「おや?」。そっと、窓から覗き込んでみる。薄明かりの中で、盲目の少女が鍵盤をさぐるように演奏していた。男は家に入ると、少女に優しく声をかけ、やがて、静かにピアノを奏で始めた。叙情的な調べ、荘重な和音。柔らかな音色が少女の心を包み込んでいく。…と、天空から一条の月光が…。白い光は輪を広げながら、男の姿をくっきりと照らし出していた。楽聖“ベートーヴェン”と奏鳴曲『月光』にまつわる伝説である。

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 1802年。ベートーヴェンは美貌の伯爵令嬢ジュリエッタに『月光の曲』を捧げた。「あなたは僕を愛し、僕もあなたを愛しています」と、彼は“シェイクスピアのロミオ”のごとく、月夜の庭園で熱烈にプロポーズする。

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 「この曲は、湖にただよう小舟のようだ。月光にきらめく波間に浮かんでいる」と、ドイツの詩人レルシュターブは感動する。『月光』の曲名の由来である。ベートーヴェンにとって、その甘美で哀愁に満ちた旋律は、おそらく、恋人への愛の告白だったのだろう。…が、彼女の心は急変する。突然、氷のような冷たさで男を突き放したのである。妖麗な月の光が彼女の心を狂わせ、魔女に変身させたのか…。恋人たちよ、月夜での逢瀬には、くれぐれもご用心! 


                             2003年・岐阜新聞掲載





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