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自分の頭で考えるということ

日本を離れて暮らすようになって20年になる。

日本は清潔で秩序正しく、安全で美しい国であり、私は日本人として生まれて幸運だった。
常に日本の航空会社を選ぶのも、チケット購入手続きから機体を離れるまで日本の静謐さを感じていたいからである。
日本ほど物事がきちんと進む国はないように思う。私にとって、それはほぼ非現実的であり、精神衛生上掛け替えのない、ありがたいことなのである。

その一方で私が不安に感じているのは、日本人の幼児性と言ってしまうのが憚れるならば、成熟するということを意図的に拒んでいるようにも感じられるという点である。

20年前には県のキャラクターがぬいぐるみのようなものであったり、テレビ番組もその傾向が有ったとはいえ、頭の良くなさそうな(実際にそうなのか、そぶりをしているのかは別にして)人たちを大勢ゲストにして低俗な笑いを提供するような番組は、それほど多くなかったと記憶する。
クラスメート全員参加の文化祭かというような歌手たちもいなかった。
叩かれて久しい放送局も、まだ質の高いプログラムを作っていたように思う。

この変化はなんなのだろう。
帰国する度に、このような状態が良しとされるのでは、日本が作り出すものはどんどんと浅く、幼稚になってしまうのではと感じた。

人々の文章の書き方に変化が出てきているのも気になってきた。
第三者を指す際に「あの人」を「あの方」、値段が高いものを「お高い」(茶道具ならまだしも、ピーナツがお高い、と言っているのを耳にしたことがある)、さらには「〜してください」というところを「〜してくださいませ」と表現する人が多くなった。

馬鹿丁寧、というのは返って失礼であるということ、正しい敬語や謙譲語を教育されたと自負している世代なので、個人的にはこのような表現はとても気持ちが悪く感じる。
私には慇懃無礼とさえ感じられるこのような言葉の奇妙な変化には、何か原因があるのであろうかと考えた。

丁寧にしておけば間違いないだろう、という安易な自己防衛手段なのではと思い当たった。
常に伏線を張って、自分の言動に責任を取ることを躊躇していたら、いつまで経っても成長しない。
私は日本人の弱点があるとするならば、それではないかと思った。

政治家が深刻な問題への返答を、全て「遺憾」で済まそうとするのはその顕著な例ではないか。
そこには意志の強さは微塵も感じられない。感想文を読んでいるのと何ら変わらない印象を受ける。


私は日本が強くあって欲しい。
ありきたりな比喩だが、竹のように強靭であって欲しい。


繰り返すが、日本は世界に類まれな「滅多なことでは無茶苦茶な言動を起こさない」きちんとした国民によって成り立っている国家だ。
私は、日本政府は国民に感謝すべきだと思っている。

日本人独特の同調基調のおかげで日本の秩序が保たれ、整然とした生活が成り立って来た。しかし、世界情勢から見て、半永久的に平穏無事と楽観視していられる状態ではなくなったと思う。
有事に備え、周囲に惑わされずに判断が出来るようにする訓練をしておいた方が良いと思う。

今回のパンデミックで、情報の信憑性を疑っている人たちが少なくない。
私はメインストリームメディアを信用していないので、自分の健康、ましては命に関わることは、少なくとも自分で調べようと思い、普段は意図的に避けているSNSを利用して情報を得てきた。
心配のあまり日本の友人に尋ねたところ、私の住む国の傾向とは違い、日本はまだメインストリームメディアに惑わされていない人々が多いようなのは、救いだ。

言うに及ばず、最終的にはそれらの情報を選択するのも自分であり、さらにそこから自分の頭で判断するということが必要不可欠になってくる。

世も末のように思える今の世界にも、利権や私欲に無関係で、人の為になるよう情報を発信してくださっている極少数の方々が存在する。
パンデミックの中、こういった志の高い方々のお陰で、精神的にもどれだけ助けられたかわからない。

最後に、その方々をご紹介し、拙文を終わらせたい。



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