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日、一日と、人が好きになれたのはnoteのおかげ

おはようございます😃


今朝は、先日、地震の翌日に書こうと思っていたことについて、深堀して書いてみようと思います。


私は、最近、


「あぁ、つくづく人が好きかもしれない、いや、多分好き、いや、相当好き


そう思うようになりました。


noteを始める前までは、わざと偽悪ぶるというか、


善人ぶっても、所詮、私は、根っこのところはかなり黒い。せいぜい、善を目指して頑張るけど、やっぱり根っこは所詮悪人。


どこかでそういう風に思っていました。


アイコンのニヒルな感じのネコは、私のその思いの現れでもあります。(これも近いうちに変えようと思っています。)


それは、過去のトラウマからそうなった部分もあるし、そもそも、生まれ落ちたその瞬間から


「産まれてきてごめんなさい」


そういう贖罪意識を強く持って産まれて育ってきました。


人生のある一点で、産まれる前、赤ちゃん時代の自分が


「産まれてきてごめんなさい」と泣いているビジョンを見たことがあり、


あぁ、ずっとそうやって生きてきたんだ。それは、苦しかったね。よくまぁ頑張ってきたねと自分で自分を慰めたものです。


noteを始めた時も、大切な同期が40歳で亡くなって、自分も一年後には死んでしまうような錯覚にとらわれ、後から、家族や大きくなった娘に、


「お母さんは、こんなことを考えていたんだよ」


そう伝えたい気持ちが大きくて、noteを書いていたような感覚がありました。


ある意味遺書ですね。


だから、読まれなくて寂しい気持ちもあったけど、スキが一つもなくても、フォローしてくださる方がほとんどいなくても、遺書だから、良かったんです。


昨年5月からスタンスを変えて、


「読んでいただけるnoteにしよう」


そう方向転換してから、勉強のために、他の方のnoteを読ませていただり、コメント欄で交流させていただいたり、noteの枠を飛び越えて、交流会やメール、DMなどでやりとりさせていただいたりするようになりました。


私は普段、普通のサラリーマンをやっています。朝会社に行き、仕事をしてまっすぐ帰宅し、週末はほとんど家族と過ごす。


だから、さまざまな立場、業界、年齢、あらゆる枠組みを飛び越えて、記事を読ませていただくこと含め、こんなに毎日誰かと本音で交流させていただくことは、これまでの人生で初の経験です。


私が好みのnoteは、創作であっても日記、エッセイであっても、その方が本音で書いている記事です。


結果、あらゆる枠組みを超えて、本音を書いているnoterさんの記事に触れることになります。


そうすると


へぇ!そんな考え方があるんだ!


すごいなぁ!


それはしんどかっただろうなぁ!


いや、めっちゃ感動する!


心が静かな感動にぶるぶる震える毎日を過ごさせていただいている状態です。


そう、


noteは巨大な共感の場


毎日、あらゆる方々の本音に触れ、共感して、共感していただいたりするうち、


昔は苦手だった


①人と自分をきちんと区別すること


②①に伴って、人の荷物を背負おうとすることをやめる訓練。(人とガチで関わることにどこか線を引いていたのは、過去のトラウマから、人の荷物を背負いこみがちな自分の傾向にも気づいていたからです)


③ポジティブなフィードバックや言葉をかけていただくとすごく嬉しいから、日常生活でも、人に対してポジティブなフィードバックが以前より躊躇なくかけられるようになった。


④結果として、相手の方が喜んでくださると、私も嬉しい。


そんな感じの良い循環がゆっくり回り始めた結果、日、一日と人が好きになり続けているように感じます。


つまり、noteって有難い!


このnoteの優しい世界がいつまで続くか分からない。


でも、ここで得た気づきは、今後の人生を過ごしていく上で大切な宝物として、しっかり胸に抱き締めていこうと思います。


noteの優しい世界、交流させていただいているnoterさんたちに改めて感謝✨✨✨


ここまでお読みいただき、ありがとうございました✨✨✨





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