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映画『傷物語』三部作 - 感想

アニメ〈物語〉シリーズ初見視聴マラソンの続きです。これまではシャフトによるアニメの放映順にTVシリーズをみてきましたが、ここで少し飛んで、劇場版である『傷物語』三部作(2016-2017公開)を観ました。作中の時系列としては『化物語』の前日譚であり、内容的にも阿良々木暦の怪異との物語の始まりのエピソード。さらには、西尾維新の原作小説の執筆・刊行順としても『化物語』の次(『偽物語』の前)と、かなり早い時期に書かれたものなので、アニメ化の順番と前後してでも、早めに観ておきたい!という思いが我慢しきれなくなったのでみました。

観たのはdアニメストア ニコニコ支店の1週間レンタルです。いつもお世話になっております。




4/15

〈Ⅰ鉄血篇〉

すごすぎ。全カット、唖然とするしかないうまさ。このレベルの映像のアニメ映画を初めてみたかもしれない。尾石達也ってひと、恥ずかしながら全然しらなかった。天才。
三部作の最初ということもありストーリーがめちゃくちゃ薄く、かつ「阿良々木暦がキスショットと出会って吸血鬼になる全ての始まりの話」という概要はこれまでのTVシリーズでなんとなく把握しており、登場するキャラも(バンパイアハンターの3名以外は)すでに知っている状態なので、内容面では情報負荷がとても少ない。このために、最大限「映像」を鑑賞することに集中でき、そのとてつもなさを存分に味わえる一因となっていると思う。
西尾維新の原作小説が部室の本棚に並んでいるのを今日ちょうど見た。『傷物語』は、上下二分冊の『化物語』の単巻と比べてもとても薄い。それほど分量のない物語を、よりにもよって劇場版3部作で映像化しようという発想が慧眼だし、それをやってのけてしまったシャフト・製作陣が素晴らしい。まだ第1部しか観ていないけれど、この調子で行ってくれれば、ほんとうにオールタイムベストのアニメ/映画になる。
キャストが阿良々木・羽川・キスショット・忍野の4名のみと超ミニマルな構成なのもほんとかっこいい。敵3人の声はなんか変な感じのエフェクトが掛かっていて聞こえない。次回からはふつうに喋るらしいが、この第1部ではキャストを思い切って絞ったのがマジで良い。
この映像で魅せられたら物語シリーズのどのキャラだっていくらでも好きになってしまうな。羽川は言うまでもなく、暦もキスショットも忍もメメもめちゃくちゃ魅力的だった。忍野メメの咥え煙草の格好良さといったら! このトーンでTVシリーズをいちからリメイクしてくれ(無茶)。
日章旗は確かにしばしば登場している。太陽とか血とか色々なものの隠喩。キスショットが慟哭する場面で涙が血だまりに落ちるカットの逆・日の丸がとても美しかった。
序盤でヒッチコック『鳥』の引用。エピソードさんだかがでかい十字架を持っているし、アバンの日光に当たって燃え盛る阿良々木の佇まいなど、聖書っぽいというかニーチェっぽいというか神話的というか・・・(適当) とにかく荘厳で圧倒された。圧倒されたしか言えん。
デカい地下鉄駅のホームで阿良々木はキスショットと運命的な出会いをする。ここのロケーションは『呪術廻戦』の渋谷事変編を思い出した。これも引用元の1つか? 連載が2018年からだから、『傷物語』から着想を得ている可能性はなくはない。


4/15-16

〈Ⅱ熱血篇〉

ヴァンパイアハンター三銃士との対決と、ヒロイン羽川翼との青春を軸として描かれる第2部。終盤のすすき野原での羽川とのやり取りのシーンで、わけも分からずに涙が、嗚咽が止まらなかった。もうだめだ。。。何もかも完璧すぎる。手が震える。前話を越えてくるとは思わなかった。全カットの絵コンテ演出がすごすぎて開いた口が塞がらないこの感じ、『オマツリ男爵』のときと一緒だ。
バトルアクションものとしても、これほどすごいアニメーションは見たことがない。凄まじくおもしろい。腕が、身体がもがれる(さまをアニメとして観る)快楽。そこから腕が生えてくる快楽。
四肢が戻る(食う)ごとに幼児体形から成人体形へと成長していくキスショットの魅力もはんぱない。
今すぐTVシリーズを『化物語』から観返したいし(尾石達也はどこまで関わっていた?)、原作の小説を『傷物語』だけでも読んで映画と比較したい。
日章旗が依然として意味深に差し挟まれる。この話とどう絡めて読むべきなのだろう。近代日本国家の変遷と重ね合わせている?? 吸血鬼から人間への旅。
敵3人の構成も考えさせられる。吸血鬼→ヴァンパイアハーフ→人間の順。行動原理は仕事→私情→使命。


4/16, 2:30

〈Ⅲ冷血篇〉

おわった……。この第3部はまたこれまでとはだいぶ趣きが異なるな。前2作から葛藤などの「物語」要素を極力排除していたぶん、この第3部に『傷物語』の思想面はまとめられていたかんじ。(むろん隠喩などでは1,2部でもあったろうが)
前半の体育倉庫(にしては広すぎるし天井高すぎない?)での羽川へのセクハラパートは・・・どう受けとったらいいのかむずすぎる……いつもの自分なら、セクシズムだと非難しているだろうけれど、ちょっと『傷物語』に関してはこれまでの映像の質によって脳をやられていて、そういう気が起きない。とりあえずものすごく興奮はした。はい。
で、後半の国立競技場?でのキスショット戦よ! 第2部の戦闘も凄かったけど、こっちもとんでもない。頭や四肢がポンポン飛んで分裂してそれぞれにちょこまかと動く絵面が面白すぎる。こういうの大好き!!! ラストバトル、人類の命運を賭けた決闘……!的なフリをしてから、コミカルに、でもシリアスにこうした狂騒が繰り出されるもんだから楽しいったらありゃしない。キスショットの胸に阿良々木の全身が突き刺さって頭部だけ胸から飛び出ているのとか、赤ん坊の状態で再生して急速に成長して今の阿良々木になるのとか、最高。最後に阿良々木が全裸になっているのも良くて、前半の羽川へのセクハラはこのためか~と謎の納得をしてしまいたい。
ストーリーの主題は種差別というか、「人間」中心主義へのカウンターを提示しておいて、さらにそれをいかに乗り越えるのか、という問題を扱っていたような気がする。暦はけっきょく「みんなが幸せになる」道を諦めないのだけれど、その結果として、死にたかったキスショットを生き長らえさせることになる(=「みんなが不幸になる」)。あの死んだような目がたまらない。その後のTVシリーズの話を観れば、ふつうに2人は仲良く幸せそうだし都合よすぎるくらい丸く収まってる感は拭えないが、あくまでこの映画に限っていえば、終盤のくらーいトーンがとても好きなのでその雰囲気の演出だけでゆるしてしまう。
(他人のために)自ら死のうとしている者に「生きろ」ということの暴力性を強く自覚しながらも、それでも最後にはボロボロになりながら肯定しきる、ということをやっている話でもある。前半の羽川→阿良々木、後半の阿良々木→キスショット。
最初に後先考えずキスショットを自己犠牲で助けてしまったことの愚かさが糾弾され、阿良々木がその反省をするくだりは、露骨に特攻隊などのヒロイズム批判に読める。
昭和の東京五輪がモチーフとして引用されていたが、けっきょく「日本」推しはどういうことだったんだ。キスショットも元は人間で純粋なヴァンパイアなどいないところや、最終的に暦とキスショットが融合して互いに「もどき」の中間的存在になったところなどからは、「純粋」な日本人という国家統一的民族神話の崩壊を示唆しているとか? 人間中心主義とナショナリズムが重ねられている? 日本⇔人間。あ、そうだ、なんか羽川が実写?で日の丸っぽい赤いゴム膜みたいなところに突っ込んで破り抜くイメージのシーンあったよな。あそこも衝撃的だった。日章旗を破壊するヒロイン。ゴム膜とかも露骨に性的なメタファーだし。大江健三郎『性的人間』とかも読みたい。
そしてラストカット。「僕はそれを、誰にも語ることはない」という阿良々木の語り。おそらくパイプ椅子に座ったキスショット視点であろう一人称ショットで、阿良々木が「こちら」を向いて、神妙そうな顔のあとハッとして微笑んで、映画は終わる。ここでわれわれ鑑賞者とキスショット(吸血鬼からボロボロの「人間もどき」に堕ちた存在)が重ね合わされている。加えていえば、ここの整然と一方向に並んだ赤い椅子は否応なしに映画館の座席のイメージを喚起している。「誰に語っているのか」と「誰が観ているのか」という二重の「聞き手」の存在を最後の最後に浮かび上がらせるこの演出は、とうぜん非常に自分好みだ。「誰が観ているのか(=この映画のカメラは誰か)」という問題系でいえば、そもそも第1部の冒頭パートからして、学習塾跡地の屋上に出て彷徨う阿良々木を空撮しているようなカットがあった。ここではまるでヘリコプターの飛行音のようなものが鳴り響いている。しかしそのような飛行体は映画にはまったく映し出されない。つまり、実はずっと阿良々木(たち)の傍らには「カメラ」たる撮影者/観測者がいたのだが、その存在は映画というメディアの力・権威によって巧妙に隠蔽されてきたのではないか? その隠されてきた存在に、最後の最後で阿良々木は視線を向ける──「語ることはない」という言葉と共に。ここで視線を向けられた(われわれとまさに「同一視」されている)キスショットがこのあと阿良々木の「影」として文字通り身体を共有して生きることになるという事実もまた意味深長である。この『傷物語』を通してわれわれ観客は阿良々木暦という「語り手」と同一化してはじめて、『化物語』以降の、阿良々木の過剰な語り(一人称小説の文体=style)を獲得するのだと言えるかもしれない。この意味でも、何重にも、映画『傷物語』は〈物語〉シリーズのはじまりの物語であろう。本当に今更ながら、この『傷物語』3部作ではTVシリーズの特徴的な主人公の語りがきわめて希薄であった。絵コンテ・演出・作画のトーンの違いよりもまず、そこが劇場版での異質さとして見出されてしかるべきだろう。
こうなってくると、キス "ショット" という名前にさえ(陰謀論的に)何か意味を見出したくなる。



あにもにさんの『傷物語』論など

『傷物語』をはやく観たかった最大の動機であるあにもにさんの批評↑をようやく読めた。吸血鬼と化して千切れ再生する阿良々木暦の身体は戦後民主主義的身体である。なるほど。大島渚『少年』『絞死刑』観なきゃ……

とはいえ、ハードルが上がり過ぎていたためか、すでにこの文章の概要(『傷物語』のナショナリズム表象からの読解)はなんとなく聞き及んでいたためか、期待していたほどの感動はなかった。というか、映画本編の内容がすごすぎて、それに比べれば、そりゃあこのくらいの(良く出来た)批評は書かれて当然だろう、という気持ち(何様?)があるのだと思う。

黒地に白抜きで「vampire」「tragédie」「histoire」とフランス語が3単語ほど映し出された後に「白黑反轉」の字幕が現れ、画面は文字通り反転する。観客の誰もがゴダールの映画を想起せざるを得ない、この冒頭を構成するシークエンスは『傷物語』のすべてを要約するにふさわしい20秒間である。

草。批評家しぐさだ。ゴダール観たことなくてごめんて

あと、一つの画面のなかに手描きと3DCGと実写など、異なるレイヤーのものが異質なままに共存している、という指摘については、わたしの「眼」がアニメ鑑賞用に洗練されていないだけだとは思うが、それほど不自然さ・不合理さを感じることはなく、ごく自然に見流してしまっていたのでピンとこない、というのもある。

へぇ~ ここ『パックマン』の音だったんだ。それはあからさまな引用だなぁ

ていうか、ここに限らず、ゲームの効果音的なコミカル/コミックなSE演出は(暦の戦闘/疾走シーンとか)いろんなところで成されていたよね? 冷血篇の国立競技場でのキスショット戦でも阿良々木の走る音・着地音に16bit的なものが足されていて、真剣な熱いバトルの雰囲気を脱臼させている感じがめちゃくちゃ好きだった。

これも先にあにもにさんのこのツイートを見ていたので、本編を観始めたときに「おぉ~~これが噂のノルシュテイン(誰?)オマージュかぁ~~」と感動していた。

へぇ~~ ロイヤルボックスなんてものがあるんだ。こういう知識ってどこで身につけるんだろう

まじかよ
でも一人称ショットがラストカットで良かったな。



「傷物達を抱きしめて」よりも個人的にはこっちの対談のほうが興味深かった。全体的に水野さんの指摘が鋭い。
神代辰巳「港町に男涙のブルースを」もチェックリスト入り。

あにもに:ひとつ僕自身が問題意識として持っているのは、たしかに『傷物語』は戦後日本の経済成長や東京オリンピックをめぐる神話をベースに作られているとは思うのですが、その歴史性と、劇中に多用される日本的なるもののイメージなどは、簡単には結びつかないだろうということです。尾石監督のインタビューをただ鵜呑みにするのもあまり良くないというか、たしかにそういったことが描かれているのは事実ですが、実際に映画を観てみると、それ以上のイメージの事態が展開されており、単に尾石監督の言葉を引用してみせて説明できる範疇を超えていると思えてなりません。

水野:かりにそうだとしても、そこで阿良々木とキスショットが国立競技場で戦うことの意義であったり、そもそも、1960年代の都市空間とともに現れるキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードとは一体何者なのか、といった根本的なテーマは依然として存在しますよね。

あにもに:「日本がテーマだから東京オリンピックで国立競技場が登場する」ではトートロジー的で何も言っていないに等しく、事態はまったく済まされないと思います。例えばですが、これは素朴な疑問として、祝祭としてのオリンピックのモチーフを借用するならばそこには当然日の丸以外の世界各国の旗がなければやはり不自然でしょう。市川崑の記録映画『東京オリンピック』(1965年)でも冒頭のショットでは世界中の国旗が映し出されますよね。それが日の丸だけで構成されて、しかもひたすら劇中で反復される光景は、あまりにも違和感があって、フロイト的に言うならば一種の「不気味なもの」として表現されていると思います。

このへんのあにもにさんの語りキレッキレで好き


水野:鬱的な空間としての埋立地は怪異の表象の問題と密接につながっていると言えると思います。『化物語』から通底しているのは、〈物語〉シリーズにおける怪異一般は、都市化が進んでいって郊外やニュータウンが誕生した以降の生に対する感触で描かれているということです。そのことが一番よく表れているのが「まよいマイマイ」の八九寺真宵のエピソードです。
あにもに:たしかに、「まよいマイマイ」はまさしく土地に関する物語です。

水野:「まよいマイマイ」はかつてある街に生きていた少女真宵をめぐる話で、彼女は交通事故に遭って亡くなってしまうのですが、死後人間を迷子にさせる迷い牛という怪異になります。そこで阿良々木に取り憑くのですが、その解決策として提示されるものがとても興味深いです。
あにもに:真宵が交通事故に遭った後に行われた土地の区画整理された新しい道を使うことで、迷い牛の影響力が無効化され、無事目的地へ辿り着くことができる、といった話ですね。

水野:土地の区画整理というのは、都市開発によって引き起こされるものでもあります。つまり、怪異譚の中にニュータウン的な都市の問題/特徴が入り込んでいると言えます。そこで描かれる怪異というのも鬱的な空間における手触りが入っているように感じていて。

「まよいマイマイ」そんな話だったっけ。めちゃくちゃ面白いじゃん。やっぱ都市空間、「道」、交通(地下鉄etc.)あたりの観点は興味深いな~~。「日本という巨大な墓標」といい、『ハルカの国』および〈国〉シリーズの読解にも自分のなかでは繋がってくる。どちらも「怪異」「化物」と人間の交流/共存/融合/戦争が描かれる物語である。

あにもにさんは戦後日本の問題系を『傷物語』および物語シリーズに見ているけれど、国シリーズは戦後日本よりももう少し射程が長く、明治からの近代日本国家の成立~現代までを扱っているのは本質的な差異か、あるいは掘り下げていけば同じものなのか。



えっ、LWさんとも繋がってるの?

まじか。知らんかった。読まなきゃ



読んだ。

積分されて可視化される成長は、微分された不可視の微成長が下支えしています。

LWさんのこういうレトリック言い換え文ほんとすき

しかし、漫画キャラクターはそういう連続した微分的変化を描くことが出来ません。(中略)

この意味で漫画には連続的な身体の成熟が描けないことを認めた上で、それでもどうにかして成熟らしきものを描きたいと思ったとき、「不連続な成熟を描く」という手法がソリューションとして浮上します。例えば、「右腕が少しずつ太くなっていく」というリアルでアナログな成長は描けないとしても、「欠損した右腕を取り戻す」という記号的でデジタルな成長を描くことはできます。このようにして、「身体部位を取り戻す」というモチーフは「記号的な身体の歪んだ成長」として再定義されます。

このように捉え直された成熟のモチーフは『傷物語』においては美少女文化とも接合し、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは四肢を取り戻すたびに不連続に成長していきます。

キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが「四肢を取り戻す」という目的を掲げる割には、実際に達磨状態になっているのは阿良々木暦との初遭遇時だけで、ロリ状態になってからは何故か普通に手足のある状態のキャラクターとして図像化されている違和感を見過ごしてはなりません。図像的には手足があるのに四肢を取り戻さなければならないという不自然な設定は、彼女の成長がリアルで肉体的な次元ではなく象徴化された記号の次元にあることを示しています。

くそおもろ。「ロリ状態になってからは何故か普通に手足のある状態のキャラクターとして図像化されている違和感」たしかに! そりゃあ達磨状態より五体満足の幼女キャラのほうが一般受けするからやろ、的に半ば無意識に見過ごしてたわ。

『傷物語』を観ていて、わたしのいちばん好きなアニメ/映画である『おおかみこどもの雨と雪』っぽいなぁと思うことが多々あった。おおかみ⇔人間のあいだの連続的な(=滑らかな)変化と、キスショットの幼児体形→大人体形の変化の相関とか。
でも、このLW論ではむしろキスショットの体形変化は不連続であり、おおかみこども的な可逆的で再現可能な連続的変化とはまったく異なる位相にあるということか。

・・・あるいは、『傷物語』クライマックスにおいて阿良々木暦とキスショットが互いに共依存関係になることで獲得した人間と吸血鬼の中間的立ち位置は「おおかみこども」のそれである? そして、逆に『おおかみこども』クライマックスでは雨と雪がそれぞれおおかみ/人間という生き方を不可逆な形で選び取って道を違えるため、『傷物語』と『おおかみこどもの雨と雪』はちょうど反対の遷移過程を描いた物語であると考えることもできるか。

『傷物語』=人間と吸血鬼, 不連続(不可逆)→連続(融和)
『おおかみこども』=人間とおおかみ, 連続(可逆)→不連続(不可逆)

なんにせよ、『傷物語』を観ることで自分のなかの『おおかみこども』の見方もさらに豊かになることは間違いない。わたしのなかでオールタイムベスト作品は響き合って、たがいを豊かにする。


もともと阿良々木暦は羽川翼の身体に対して異常なまでの距離を取る童貞ボーイですが、胸を揉むシーンに来てエロ親父的な台詞を吐きながら体に接近するという半ばギャグめいた積極性を突然見せるようになります。これは一見すると阿良々木暦も性欲の主体として振る舞えることが示されたかのように見えますが、僕の考えでは全く逆で、むしろ彼自身は性の主体では有り得ないことを強力に肯定します。

何故なら、このシーンで示されているのは、阿良々木暦は性的なやり取りをエロ漫画的なフォーマット、一定の作法、「女性の性を貪る男性」という記号として再定義しなければそれを語ることさえできない徹底的なインポテンツだということだからです。すなわち阿良々木暦は記号化されていない限りは性を消費できません。阿良々木暦が羽川に触れる際にはリアルな生々しさはオミットされ、上滑りする記号としてのみ辛うじて性に接近できるという構図は、成長において見られた歪みの在り方と全く同じです(リアルな成長はオミットされ、欠損の回復という上滑りする記号としてのみ辛うじて成長できる)。

うわ~~~なるほど~~
あの「羽川の胸を揉む揉まないで異様な長尺で揉めるシークエンス」の解釈をじぶんはお手上げしていたけれど、この読解はうますぎるなぁ……

死と傷についても同様で、記号化された阿良々木暦の身体性は死なず・傷付かず・物理無敵です。特に欠損した傍から再生してしまうので戦闘シーンがギャグシーンにしかならないというゴア表現とコメディの関係が決定的に重要なので、これは独立させて次節に回しましょう。

そうそう! これこれ!!

この後、『傷抱き』は例としてショット内に混在する作画文法の混乱を挙げてコンポジティングの不合理性へと論を進めていくのですが、僕が感じた過剰性は『傷抱き』のそれとは微妙にズレており、やはりもっと直接に記号に関するものです。つまり僕が引っかかるのは、過剰な記号性=内容の空虚なイメージの付与がたびたび行われることについてです。

自分もあにもにさんよりLWさんの立場だなぁ

ポイントは、身体欠損時にふざけたSEが付随するのは主に阿良々木暦とキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの二人だけだということです。実際、羽川がエピソードに殺されかけるときや、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードがギロチンカッターを食べるときは「おふざけ」は無しです。リアルな損傷音と共に内臓がこぼれたり、死体としての顔が描かれたりします。

阿良々木暦とキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードだけが欠損をコメディ化されるのは、やはり彼と彼女が吸血鬼、すなわち記号的な身体を持つ存在だからです。吸血鬼の不死の身体はコメディの産物であり、損傷や欠損という真剣な悲劇に耐えられる真面目な身体ではないのです。キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの眷属になったことで、阿良々木暦の身体はミッキーマウスと同じ水準になってしまいました。欠損を描く際にギャグの文法を流用することにより、阿良々木暦の身体が欠損をギャグとしてしか消費できないコメディ世界の住人のものに変質したことが示されます。

こうして、阿良々木暦の身体の上では欠損という本質的にグロテスクなゴア表現と、不死という本質的にメルヘンな記号表現が鍔迫り合いをしている様子が見て取れます。

うわ~~~~・・・・なるほど・・・


まず、基本的に『傷抱き』も『アトムの命題』も最終的な読みは一致します。つまり、いずれも阿良々木暦の両義的な身体性には戦後民主主義の欺瞞と緊張関係が現れているという結論を出します。
ただし、あにもにがナショナリズムの表象と不合理なコンポジティングに注目した一方で、大塚英志(を援用したLW)は古典漫画的な表象と記号的な身体に注目したという過程の差異があります。(中略)いずれにせよ単なる別解の提示で終わってしまっては面白くないので、過程が違うなら過程に注目して比較する作業をやっておいた方が有意義でしょう。

論の差異としてまず僕が思うのは『傷抱き』と『アトムの命題』では歪みを見出す水準が微妙に違うということです。『傷抱き』ではコンポジティングにおける不協和、『アトムの命題』では記号的な身体の描写という、どちらも表象的な部分に歪みを見出しているように見えて、前者が表象同士の緊張に注目しているのに対して、後者は表象と内容の間の緊張に注目しているという違いがあります。(中略)『傷抱き』が表現が滑らかに結合していないという水平的な次元、『アトムの命題』が表現が内容をきちんと(?)示していないという垂直的な次元と言ってもよいかもしれません。

となると、次に気になるのはこの水準の違いはそれぞれ対立関係にあるのか協調関係にあるのかということです。一方を強調することはもう一方を増進させるのか、それとも減衰させるのか?
この答えは明らかで、これらは協調関係にあると言ってよいでしょう。滑らかでないコンポジティングは表象と内容の間のギャップを増幅しますし、内容に適合しない表象は表象内での不合理性を示唆します。これらの論は相補的に用いることができる、ウィンウィンの関係にあります。

すげえ~~~ 2つの論で示唆される『傷物語』の「歪み」同士の関係をさらにメタに考えたうえで率直に結論を出す・・・こういう論の手付きはLWさんくらいしか出来ない気がする。

このLWさんの記事の最初に

僕とはかなりオタク・タイプが違っていて、この記事の内容も普通に一つも知らなかったのでへえ~そうなんやと思いながら読みました。僕や僕が普段よく話すオタクたちが興味があるのって基本的に「お話の内容として何が語られたのか」というWhatであって、「お話がどうやって表現されたのか」というHowに注目するオタクがほぼほぼいないです。

と書いてあって、「いやLWさんだって、いつもは表現にあまり言及しないだけで、やろうと思えばいつでもHowの批評だってめちゃくちゃ出来るじゃねえかあんた!!!」と本記事を読んで思っていた。
しかし、LWさんはここで、「じぶんがやっているHowの批評」と「あにもにさんのHowの批評」のあいだの微妙な、しかし決定的な差異にまで洞察して言及してみせる。そのうえで、両者の関係を「ウィンウィンの関係」だと示す。すごすぎ。まいりました。

『傷物語』本編を観たときと同じくらいの感動を、「『傷物語』の感想&『傷物達を抱きしめて』Review. LW→あにもに」を読んで覚えた・・・とまでいうのは流石に言い過ぎかもしれないが、しかし「アニメ批評はLWしか勝たない」状態になっています、いま。



あと、こうして他のひとの精緻で深い『傷物語』論考を読んで、この映画の奥深さに感嘆するたびに、それと同時に、「鉄血篇」「熱血篇」の、一見するとストーリーがめちゃくちゃ薄くてほとんど無いといってもいいくらいのシンプルな佇まいがよりいっそう愛おしくなる。

一回みただけの現時点では、(どれも超好きであることは前提のうえで)強いて好きな順番をつけるならば 熱血篇>鉄血篇>冷血篇 となっているが、この自分のなかでの三部作の立ち位置、役割の違いというのがますますしっくりくるようになっている。

すなわち、めっちゃ深いお話はそれはそれで好きだけれど、けっきょく、いちばんぼくのこころを揺り動かす映画は、とくに内容のない、ベタすぎて今更何も言うまでもない、出会いであり、動きであり、会話であり、青春であるということ。むろん「内容のない」と言ってしまうことは何重にも間違っているのだけれど、自分の胸をまっすぐに打ち抜くその純粋さをこう言ってしまいたくなる。その欲求から抗う行為こそが批評であるのだとしても。


とりあえず小説『傷物語』は注文しました。届き次第読んで映画と比較します。もちろん映画『傷物語』をせめてもう一回は観なきゃいけない。アニメ『化物語』も観返したい。『さよなら絶望先生』とか、他の尾石達也作品も観たい。物語シリーズアニメのまだ観てない続き(『憑物語』『終物語』etc.)も観たい。



・これまでのアニメ〈物語〉シリーズ関連note



・これまでのLWさん/LWのサイゼリヤ関連note





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