ガチャは革命的なゲームシステムなのか




・イントロダクション

小二で全国模試一位を取った男の半生」というブログ記事でバズっているLWさんが、「(ソシャゲにおける)ガチャは革命的なゲームシステムである」という意見を表明していました。

この意見をみて自分なりに思うところがあったので、反論(というほど大したものではないですが)を書いてみようと思います。

なお、あらかじめ言っておきますが、「ガチャに廃課金することで現実に破産したり不幸になる人間が続出してるのだから、絶対にゆるせない!」的な、現実の社会的な倫理/道徳/常識に基づく反論は一切しません。そういう社会的な論争のほうがインターネットの皆さんは大好物だと思いますが、そのラインの議論を期待している人はこれを読んでも肩透かしでしょうから、はやく帰ったほうがいいと思います。

わたしが議論したいのは、「そもそも "良いゲーム(体験)" とはなにか」あるいは「ゲームの本質とは」というような抽象的なことがらです。

LWさんの「ガチャはゲームシステムとして極めて優れている」論にたいして、現実社会ベースの倫理や政治を持ち出してちゃぶ台を返すのではなく、あくまでLWさんの論の前提(ガチャを集金システムではなくゲームシステムとして評価すること)に立った上で「いや、ガチャは優れたゲームシステムとはいえない」と反論することを試みます。

ただ、LWさんがこのようにツイートしている通り、もう少し待てば、断片的なツイートではなくまとまった形での「ガチャ肯定論」の文章が本人から発表される気はしています。それが発表されてから応答したほうが議論の体裁としては明らかに良いのは承知のうえで、いま書きたいという衝動を我慢できなかったのでこのnoteを書いています。

したがって、このnoteで反論を試みる「LWさんの意見」がそもそもわたしの誤読や理解不足にまみれている可能性は大いにあります。自分でこしらえた藁人形に必死で釘を刺しているのでは……という疑念は最後まで拭えません。LWさんからちゃんとした文章が投稿されたら、あらためてそれに基づいて応答し直すかもしれません。(その頃には興味が失せていて、応答しないかもしれません)


・相手の意見の確認

まずは、LWさんの「ガチャは革命的なゲームシステムである」論をより具体的に確認しておきます。

昨日の本人のツイートおよびリプライから、氏の意見の理解に重要そうなものをいくつか引用します。


(「金も含めて有限のリソース管理をさせる話?」というフォロワーのリプライに対して↓)


(「前にブログに書いてた同一のゲームであってもガチャ体験を通じてプレイヤー各々に自分だけの思い出が加わるみたいな話?」というフォロワーのリプライに対して↓)


(「ガチャ、人生だからな」というフォロワーのツイートに対して↓)



以上の言説をほぼそのままにまとめて列挙すると以下の通りです。

・ガチャというシステムそれ自体が極めて優れたゲーム体験を提供する
・売切ゲームの攻略は何度でもできる上に、いずれパーフェクトクリアできるから人生じゃない
・ガチャ回すのは金銭的な限界によって最適解には至れないから人生
・(実人生の)シミュレーションとしてのゲームは今まで成功していなかったが、ガチャで初めて成功した
・全ルート回れることが最初からわかっているのはシミュレーション体験としてはおかしい
・売切ゲームと違って試行回数が有限という制約が入る点でガチャゲーはシミュレーション体験としては優れる

これらの言葉からわたしが推測するLWさんの立場は以下の通りです。

1. 「ガチャゲー」の提供する「ゲーム体験」を評価している

2.  "いかに「人生」に似ているか" が「ゲーム体験」の(最大あるいは唯一の)評価基準である

3. 「ゲーム=人生の模倣」なのだから、「全ルート回収」などのパーフェクトクリアの可能性が存在するゲームは低級である(人生に「全クリ」は無い)

4. よって、金銭的な限界によって試行回数が有限のため、原理的に「全クリ」や「最適解」の遂行可能性が断たれており、プレイヤーそれぞれの実際的かつ固有の人生体験に限りなく漸近するからこそ「ガチャゲー」は革命的に優れたゲーム(システム)である

ひとことでまとめれば、「ガチャは(他のどのゲームよりも)人生に似た(あるいは人生そのものとしての)ゲーム体験をプレイヤーに提供するからすばらしい」という論になるでしょうか。

10連3000円で一点狙い0.1%みたいな正気を疑う価格帯じゃないとダメで、10連300円じゃダメ」という(これじたい正気を疑う)言葉も、「金銭的な限界」という実人生のリソースになるべく影響を与えたほうが(人生そのものを理想とする)ゲーム体験として優れている、ということだと解釈できます。

まさに、フォロワーの1人が言っていた「ガチャは人生」という言葉に集約されます。あるいは、よりラディカルに「ゲームは人生」というべきかもしれません。



・自分の意見の表明

それでは、ようやくわたし自身の意見(=LWさんの「ガチャは人生だから最高のゲーム」論への反論)を述べます。

一言でいってしまえば「ゲームは人生ではない。よってガチャは優れたゲームとはいえない」となります。(ふたこと!)

上記のLWさんの意見まとめ(1〜4)でいえば、2番目の「 "いかに「人生」に似ているか" が「ゲーム体験」の(最大あるいは唯一の)評価基準である」というテーゼを認めない(のでそれ以降の3,4も認めない)立場です。

LWさんは「現実の人生」を「理想のゲーム体験」に設定しています。しかし、ゲーム体験の価値は「人生にどれだけ似ているか」という基準(のみ)で測れるものでしょうか。わたしはそうは思いません。

むしろ、「現実世界の実人生とは独立した(=無関係の)《フィクション》としていかに面白い体験を提供するか」こそがゲームの本質だとわたしは考えます。

現実の人生から切り離されている(にも関わらず、まるで現実の体験のような、あるいはそれ以上の臨場感や楽しさが味わえる)からこそ「ゲーム」はゲームとして優れている/面白いのであって、現実の人生に引きつけてゲームを評価する行為は、逆に「ゲーム」を貶めているのではないか?と思います。

現実に依拠しないとゲームはゲームたり得ないのでしょうか。すべてのゲームの価値は、実人生との「近さ」によってのみ測られるのでしょうか。つまり、本質的にゲームは実人生の下位互換なのでしょうか。ゲームは自律的な《フィクション》ではないのでしょうか。

そもそも廃課金で破産することを「健全」で「豊か」な人生だと本気で言えるのはスラム育ちのゲーマー(「ゲームは人生」というより「人生はゲーム」という価値観で生きている人たち)だけでは?と思いますが、それとは別に人生が「健全かつ劇的に豊かになる」ことを以てゲーム体験の質を保証する、という論理にわたしは納得できません。

人生にはなんら実際的な影響を与えず、閉じた(=自己完結した)箱庭のなかで極上のエンタメ体験ができるからこそ「ゲーム」として面白いのだとわたしは思います。実人生のなかに取り込まれてしまうような「ゲーム体験」なんて最も低級ではないでしょうか。

そもそも、実人生に完全に一致してしまったらそれは「シミュレーション」ではないのでは?  シミュレーションゲームの歴史というのは、現実世界における体験と完全に一致させるのではなく、一致してしまったら "つまらない" から、いかにギリギリのところで距離をとってゲーム体験の「リアリティ」(="リアル" そのものではないリアル"らしさ")を保証するか、を追求してきた歴史では? その試行錯誤を「売り切りである限りは原理的に超えられない」と簡単に切り捨てる振る舞いこそ、ゲームというジャンルへの決定的な無理解を露呈してはいないでしょうか。

「現実の人生にいかに漸近するか」が良いゲームの基準なのであれば、最高にして唯一の「ゲーム」は現実の人生じたい("リアル人生ゲーム")になってしまい、もはや誰もその”ゲーム”の内部のサブ-ゲーム(=普通のゲーム)を遊ぶ必要は無くなってしまいます。……というか、現実の人生では「ゲーム」として満足できないからこそ、それとは独立したものとして「ゲーム」を人は求めるのではないでしょうか。

つまり、この現実世界に「ゲーム」が存在すること自体が、「現実の人生に漸近するほど良いゲーム」というLWさんの主張へのもっともプリミティブかつ強固な反証になるのでは、と思います。




・遅い予防線

前節でわたしがつらつらと書いてきた「ゲームとはなにか」あるいは「遊びとは、フィクションとはなにか」という議論は、歴史的に哲学者や人類学者や分析美学者がすでに重ねていることでしょう。ウォルトンとかカイヨワとかキャロルとか松永伸司とか……

わたしはこれらの著作をいっさい読んでいません。歴史的な議論に基づかないままに、思いついたことを根拠なく世間に主張するという、きわめて非-理性的で反知性主義的な恥ずべき行為を今とっています。

たほうLWさんはこれらの本のいくつかは読まれているようで、LWさんの「ガチャは人生だから最高のゲーム」論も、こうしたれっきとした学問知のうえで主張されているものなのかもしれません。(ツイート群だけでは判断のしようがありませんが。)だとすれば、やはりわたしのこの「反論」はナンセンスなものでしょう。



以上がわたしの考えです。これ以降は相対的にどうでもいい「余談」が続くので読み飛ばしてくれて構いません。(まぁ上記の反論だってどうでもいいといえばいいですけど……)



・余談1 - ガチャとルート

これは上記のわたしの主な反論とはまた異なる、わりと些細なツッコミなのですが、LWさんの「全ルート回れることが最初からわかっているのはシミュレーション体験としてはおかしい」という文に引っかかりました。

「シムシティ」などの古典的で代表的なシミュレーションゲームだって全ルート回れないのでは?(そもそも「ルート」とかいう概念がない)

「ルート」があるゲームなんて、全ゲームジャンルのなかでもノベルゲームとかごく一部だと思います。 だからノベルゲームは歴史的に「紙芝居」と揶揄されたり「所詮あれは小説のまがいものであってゲームじゃない」とか言われてきたのでしょう。

「全ルート回れない(と最初からわかっている)」ゲーム、「全クリ」という概念がないゲームなんてガチャゲーを引き合いに出さずともいくらでもある気がします。『マインクラフト』などもそうですよね。

よって、「(実人生の)シミュレーションとしてのゲームは今まで成功していなかったが、ガチャで初めて成功した」という意見にはまったく同意できません。少なくとも、「全ルート回れないと最初から分かっている」という点のみでガチャゲーの特異性を確保することはできず、やはり「課金」によって実人生のリソースにダイレクトアタックをする点をアクロバティックに肯定する筋しか残っていないように思われます。(そして、その線には上記のわたしのメイン反論をぶつけます)

いや、LWさんの真意は「ルートの概念がないゲームは現実をシミュレートできているからすばらしい」ではなく「ルートの概念はあるが、事実上、全ルート回収の可能性がはじめから断たれているゲーム」として「ガチャゲー」を評価しているってことかな。つまり、「ガチャで何を引くか」をガチャゲーにおける「ルート」だと認識したうえで、その全ルート回収不可能性(の自明性)を肯定的に評価している……ってことだろうか。うーん……込み入ってきたし、ここは要検討の保留事項ということで。




・余談2 - 就活相談

続いての余談ですが、LWさんの一連のツイートを見て、わたしが初めて(生身の)LWさんにお会いしたとき(約2年前)の会話を思い出していました。

新宿のデパートのエスカレーター内で、わたしがLWさんに「就活する気がまったく起きないんですけど、どうすればいいっすかねぇ」的な就職相談をしていて、「われわれのような自閉症傾向のある現実の利益に興味が薄いオタクはゲーム関係の仕事に向いてると思いますよ。〇〇(海外の学者の名前。忘れた)も言うように、ゲームの本質は現実社会とは独立した自己完結性ですからね」的なことをアドバイスされた記憶があります。(ものすごくうろ覚えなので、全然そんなことは言っていなかった可能性もあります。上記の発言はわたしの脳内で捻じ曲げられたものです)

ただ、じぶんの記憶を率直に信じるならば、「現実の人生に漸近するほど良いゲーム」論はあのときの助言↑と違くね?……という素朴な感慨はあります。まぁ、ゲームをプレイする側とクリエイトする側の価値基準の違いに過ぎず、LWさんのなかでは両立可能なのかもしれません。(プレイする側にとってはゲームはプレイヤーの実人生に接近するべきだが、そういう「ゲーム」をひとつのプロダクトとして製作する側からすれば、あくまで(閉じた)ゲームの質を高めることだけ考えて仕事をすればよく、他の一般の業種とは有意に異なる、ということ)


・余談3 - One Hour One Life

さらに余談ですが、LWさんの一連のガチャ肯定論ツイートをみて、こないだ「One Hour One Life」というゲームの紹介noteをRTして「面白そう」と言っていたのは伏線だったのかぁ、と感じました。

出産や乳母をやりたくないがために女の子に生まれた瞬間歩いて乳母の手から逃げ出し餓死・野生動物に突撃する自殺、リセマラが多発する。
女がリセマラばかりするため子孫が繁栄せず村が絶滅、廃村になることも多かった。
この特徴的な乳母制度が暗黙のルールとして存在するのは実は日本サーバーだけで、北アメリカサーバーでは自分で産んだ子は自分で育てましょうという風潮がある。
日本と違い食料ゲージの効率が悪い大人の食料を食わせるなという圧力もないため、ニートの男が育てているなんてこともある。
現実世界との差異は気になるが割愛する。

詳しくは↑のnoteを読むなり、自分でじっさいにプレイしてみるなりしてほしいですが(わたしは未プレイです)、『One Hour One Life』は簡単にいえば「ものすごく《現実》っぽいゲーム」らしいです。

「現実に近いほど面白いゲーム」という価値観をもつLWさんがこうしたゲームに惹かれるのはとても整合的なので、伏線回収キタ!と思ってしまいました。(まぁじっさい紹介文を読む限り、たしかにこのゲーム面白そうだとわたしも思いますけど…… ゲームの紹介noteなのにまるで短編SFのような趣きがありました。ボルヘスとかミルハウザーとか矢部嵩とかが書いてそう)


・余談4 - 罰ゲームとじゃんけん

「余談多すぎだろ」というツッコミには耳を貸さずに続けます。わたしの「現実世界と独立しているのがゲームの本質」という立場を象徴する例を挙げさせていただきます。

わたしは罰ゲームが嫌いです。じぶんが罰を受けたくないし、他人が罰を受けている場に同席するのも居心地が悪いですが、ここでの核心は別にあります。

「罰ゲーム」というけど、正確には「ゲーム罰」じゃない?とわたしは常々思っています。

なにせ、「罰ゲーム」自体には基本的にゲーム性はありません。(ゲーム性は必要条件ではありません) 罰ゲームじたいがゲームとして面白いわけではないのですから。

メインのゲームがあって、それを面白くするための触媒として「罰ゲーム」という非-ゲームが付け加えられる、という構図のはずです。だから「罰ゲーム」じゃなくて「ゲーム(の)罰」というべきじゃないかなぁ、と思います。

呼び方はともかく、わたしが罰ゲームを嫌いなのは、それによってゲーム本来の独立性が失われ、ゲームの価値を決定的に毀損する存在だからです。

説明します。わたしの立場は「ゲームは現実の利益とは無関係に独立している(閉じている)からこそ面白いし、本気で向き合う価値がある」というものです。この思想にとって、罰ゲームとは、本来、現実とは切り離されて存在している(崇高な)「ゲーム」に、金銭や恥といった現実の損得の要素を持ち込むことでゲームのエンタメ性をブーストさせることを目的としています。しかし、わたしにとっては、現実的な報酬や罰といった要素を「テコ入れ」しなければ、プレイヤーのやる気が沸かないような「ゲーム」はそもそもゲームの資格はないし、罰ゲームによって現世の利益/損失を持ち込んだ時点で、ゲームがもっていた本質的な崇高さ、独立性が穢されてしまうとしか思えないのです。

そんなわたしがこれまでの人生で遊んだなかでもっとも楽しかったゲームを紹介します。

それは「じゃんけん」です。

中学生のころ、いちばん仲の良い友達と、毎日、下校のさいに、校門のすぐ外でじゃんけんをしていました。日が傾くなか、一日につき一回きりの「単なるじゃんけん」です。お金もお菓子も賭けず、罰ゲームもありません。ただし、いちばん大事なルールがふたりのあいだには共有されていました。

それは「勝った者は本気で喜び、負けた者は本気で悔しがる」こと。

たった一回のじゃんけんに、毎日5分くらいはかけていました。始める前の準備運動や威勢のいい啖呵などを吐き合うフェイズがあり、じゃんけんをしてからもルール通り「本気で喜んだり悔しがったりする」フェイズがありました。

たのしかったです。

もし罰ゲームを導入したり、小遣いやお菓子などを賭けていたりしたら、あんなにたのしくはなかったでしょう。現実世界における利益とはなんの関係もないからこそ、本気を賭ける価値がある。本気で喜んだり、悔しがったりする価値がある。「ゲーム」ってそういうもの。「フィクション」ってそういうもの。

中学生当時、自分たちの思想をここまで言語化して認識していたわけではありませんが、しかし根っこのところは今の自分もなにも変わっていないと感じます。

わたしがなぜ、ゲームに現実世界/実人生を介入させることをそんなに嫌うのか、その原体験のひとつがこのエピソードです。





・補足1 - ちゃぶ台返し

昨日のLWさんのツイート群のみを参照して、それに対する反論を試みてきたわけですが、ブログ『LWのサイゼリヤ』を捜索したら、過去にもっとしっかりソシャゲに関する文章を書いていました。

 ちなみにソシャゲのことは結構評価していて、何が起きているかを追っておきたい程度には関心があります。
 FGO以降オタク界にもソシャゲが浸透して2010年頃の「俺たちオタクはソシャゲなんてやらねえ」みたいな空気はもう消え去りましたが、当時よくあった批判として「ソシャゲはゲームとしては下の下の下、プレイヤースキルが問われずに時間か金だけで勝てるクソゲー」という指摘は未だに事実だと思います。
 しかし、その批判はいまや問いに転化されるべきです。すなわち、「何故ゲームとしては下の下の下なのにオタクが皆ソシャゲをやるようになったのか」という疑問に対する答えは一つしか無くて、ソシャゲは(当時の批判が想定していた据え置き機のような)ゲームとは別の評価軸を持つ別の遊びだからです。
 ソシャゲはアニメとかゲームとかに並ぶ新しいカテゴリの娯楽であって、いわゆるゲームの下位種として無視できる段階はもう終わっています。そう思うと、動向を知るのに払う時間はある程度は無駄ではありません。

LWさんは2020年12月(約2年前)にこのような文章を発表していました。「ソシャゲはゲームとは別の評価軸を持つ別の遊び」であるという論は、2022年9月現在の「ソシャゲは優れたゲームシステムである」論とも異なった立場です。そもそもソシャゲを「ゲーム」のなかに入れていないわけですから。この2年前の意見に対しては、わたしが本noteで試みた反論(ソシャゲは優れたゲームシステムではない)もまったく無効です。

こうして振り返ると、そもそも元のツイートの時点で、LWさんはガチャを「優れたゲームシステム」とは一言もいっておらず、「革命的なゲームシステム」としか言っていません。

この「革命的な」という形容詞の解釈が悩ましいところです。「(ゲームとして)革命的」とは「(ゲームとして)優れた」ということではなく、「《ゲーム》というジャンルの前提を破壊してまったく別のジャンルを打ち立てる可能性を秘めた」という意味なのかもしれません。そうだとすれば、わたしが上で書いてきた「ソシャゲはゲームというジャンルの前提に照らせば破綻した低級なものだ」という意見は、LWさんへの反論になるどころか、むしろLWさんの意見を補強する結果になっているのかもしれません。

ただ、そうだとしたら、「ガチャによってシミュレーションゲームは初めて成功した」とか「ガチャは優れたゲーム体験を提供する」という言い回しはミスリーディングで不適切だなぁとも思います。わたしのように誤解する人間が金輪際あらわれないよう、「ゲームとはまったく別物」だと最初から最後まで第一に強調してほしいです。ガチャがゲームとは別カテゴリの娯楽なのだとすれば、わたしは今のところその新しい「最先端」の娯楽には、遊んでみる興味も、こうして議論をふっかける興味もないので、勝手にどうぞとだけ残して去るしかないでしょう。




・補足2 - ちゃぶ台返し返し

もっと昔の記事(3年前)に、もっとしっかりLWさんの「ガチャ肯定論」がまとめられていた文章がありました。初めからこっちに反論してればよかったのでは……orz

今回はガチャの普及から見えてくるいくつかの性質について肯定的な評価を与えようと思う。具体的には、「魔術性」「物語性」「平等性」の三点について、ガチャが(結果的に)創造した、時代に適合した新しいゲームの在り方として指摘しておきたい。

この3年前の記事では、↑のように、ガチャシステムを3つの観点から肯定的に評価しようとしています。

しかし、一読した限りでは、3つの論点とも、正直いって納得できるものではありませんでした。したがって、順番に簡単に反論を述べます。(まず上記のLWさんの文章を読むことを推奨します)


1. 「ガチャと魔術性」についての反論

ガチャの繁栄が指摘するのは、技術の産物である疑似偶然であっても、魔術的な対抗策を編み出させるのには十分ということだ。この科学に支配された時代でも(むしろだからこそ?)、偶然の絡まないゲームを遊ぶ選択肢があるはずのユーザーに対しても強力に訴求できる程度には、偶然性と魔術の誘引が強力であることを示している。


とありますが、疑似偶然で願掛けやらジンクスやらの「魔術的な対抗策」が出現するというのは、なにもソシャゲのガチャに始まったことではないでしょう。 ランダム性はゲームの本質のひとつに数えられるくらい普遍的なものだと思います。(例:じゃんけん)

デジタルゲームに限っても、ポケモン捕獲時のAボタン連打などはゲーム史上もっとも有名な「願掛け」といってよいでしょう。


ソシャゲのガチャを引く際の「願掛け」だけが取り沙汰されやすいのは、そのものずばり、「ソーシャル」ゲームだから、インターネット/SNS上でその個人的なゲームプレイングが共有されやすいから、だと思います。 初代ポケモンが流行ってた頃はインターネットが今ほど普及してなかったしSNSは存在すらしていなかった。「願掛け」行為自体はふつうに存在していたが、他人のそれを見るチャンスは圧倒的に少なかった。ただそれだけの話では。(こういうのを認知バイアスっていうんだっけ? 生存バイアスではないよね)


2. 「ガチャと物語性」についての反論

LWさんは、まず

物語性の定義については、「プロットの潜在的な分岐可能性から生じるワクワク感」くらいにしておこう。

という出発点から論を展開して

ノベルゲームと比べた場合、均質化を回避しつつ潜在的な分岐可能性を維持して物語性を提供するという点にガチャの図式的な優位性を見出すことができる。

と主張しています。

しかし、そうして分岐可能性を維持した結果として残った、ソシャゲの「物語」はノベルゲームなどと比して強度があるものといえるのか?と思わずにはいられません。

プレイヤーがどのキャラをガチャで引いてユニットを組むかに関わらず成り立つような、普遍的で「薄い」プロット=物語しかソシャゲでは実現しえないのでは?(ソシャゲに疎いので実情は知りませんが……)

つまり、「潜在的な分岐可能性」のみをもって「ガチャシステムによって優れた物語性を獲得し得る」と主張するのには無理があると思われます。

そもそも、「プロットの潜在的な分岐可能性から生じるワクワク感」を「物語性」の定義とするところから受け入れがたいです。「何でも起こりうる」のはもはや物語とは呼べません。むしろ「アンチ-物語性」の定義としたほうがふさわしいくらいです。

例えば、童話『シンデレラ』であれば、「王子が靴の持ち主を探す」段階では「シンデレラは王子に再会できる」「シンデレラに再会できない」という二つの可能性がある。このプロットの二つの可能性が存在するために、読者はどちらが起こるかわからないのでドキドキすることができるというのが物語の楽しさだ(最初から王子に再会することが分かっている状態で読んでもあまり面白くない)。

とありますが、これも正直いって「物語を楽しむセンスが乏しいですね」としか…… 真に面白い物語(文学)は、再読すればするほどに魅力が増すものだとわたしは信じています。


3.「ガチャと平等性」についての反論

以上のように、ガチャは誰にも平等である上に、能力主義の世界で戦うよりも卑近なアイデンティティを形成しやすい。これがゲームやオタクの世界にも押し寄せるグローバリゼーションへの対抗策として、能力的には何者にもなれないオタクのセーフティネットとして浮上してくることは筋が通っているように思える。

これは正直いって2022年現在のLWさんも流石に考えを改めている気がします(そう信じたいです)が、それこそ「たとえガチャの排出確率は万人に平等であっても、ガチャを引くための個々人の資産は平等ではないのだからガチャシステム自体が平等であるとは言えない」でFAでは。

「親ガチャ」などのバズワードが顕著に示すように、2020年代においては、家庭環境や遺伝子、親の資産といったものこそが、その後の人生で覆すことが難しい「能力」の最たるものだという共通理解ができつつあります。

ガチャゲーが「能力的には何者にもなれないオタクのセーフティネット」として機能するなんて噴飯ものです。それで掬われるのはせいぜいがハイソサエティのお坊ちゃんだけでしょう。こうして現実の格差はオタクの世界、ゲームの世界にもどんどん侵食し、格差を再生産していく……。


確率的な事象に「驚くべきかどうか」という判定は、「全国規模」ではなく「身の周り規模」に縮小して行われるという性質があるのだ。これが能力に対する単線的な判定との決定的な違いである。友人が「全国5000位のプレイヤー」でもあまり凄く感じないが、友人が「全国で5000人が当たる宝くじの当選者」ならばけっこう凄く感じるものだ(身の周りにはいないから)。確率に対する感性は数理モデルではなく人間らしいバイアスの支配下にあり、安易なグローバリゼーションを受け付けない。

ここは反論とか以前に、ごく直観的にまったくピンときません。「友人が全国5000位のプレイヤー」だって十分に凄く感じるんですけど……。

能力も(親ガチャ的な意味で)確率的な事象の一種である、という前段の主張をいったん脇に置いても、「能力的な事象」と「確率的な事象」それぞれへの人間の感性の違いは、この文章だけではまったく妥当に思えません。LWさんは「感覚的にわかるでしょ?」という話しかしていないので、わたしも「いや、感覚的にわかりません」と言って終わりです。




・おわり

おわりです。ア~~長かった!(ここまで読んだ方もお疲れ様で~す)

本人(LWさん)が「ちゃんとした弁明のブログ記事」を投稿する前に書き上げられて良かった!!!

それに尽きます。

前述のとおり、ちゃんとしたブログ記事へ再応答するかは味噌汁です。


ちなみに、約2年前に、わたしの「ゲーム」観を語ったnoteもあるので、もし興味がある方はそちらもぜひお読みください。この「反論」noteでの自分の立場ともちろん連関はありますが、文脈がやや異なるためまったく同じ話はしていません。



また、わたしが宣伝するまでもないですが、LWさんのブログ『LWのサイゼリヤ』はとても面白いのでぜひ隅から隅まで読みつくしましょう。

最新記事「小二で全国模試一位を取った男の半生」もたしかに面白いですが、それ以外にも名記事がたくさんありますよ~~

2年前に『LWゼリヤ』の紹介記事を書いてもいます。思えばこの頃からずいぶん遠くに来たもんだ……

わりと冗談抜きで、2年前にこのブログおよびLWさんに出会ってから人生が変わった(それが良いか悪いかはさておき)ので・・・。「もっとも影響を受けた/受けている人物」の筆頭です。わたしはTwitterのアカウントを消しましたが、いまでもLWさんのツイート/タイムラインだけは毎日10回程度見に行っています。それくらい大きな存在です。





【22/10/10 追記】

LWさんのブログ更新の件をさぼってぜんぜん追記していなかったのですが、一か月近く経って、またTwitter上でこちらのnoteが少し読まれているようなのでさすがに必要性を感じて追記します。

じぶんがこのnoteを書いた数時間後に(Twitter上でリアクションをいただいた後に)やはりLWさん本人の「ガチャ論」記事が投稿されました。急いで書いてよかった~~あぶねぇ~~~~

正直この話題にかんしてほぼモチベが無くなっているので詳しい応答はできませんが、わたしの論にたいしてLWさんの重要な論旨は「ガチャが人生に似ていることはそこまで本質ではない」ことでしょう。これにかんしてはわたしが(LWさんのTwitter上でのやり取りから)誤解していたようです。要は、このnoteの序盤で確認した

2.  "いかに「人生」に似ているか" が「ゲーム体験」の(最大あるいは唯一の)評価基準である

という「相手の意見」のふたつ目の時点で誤っていた、ということです。したがって、↑でLWさんもツイートしてくださっている通り、このわたしの文章はLWさんの論へのクリティカルな反論にならないどころか、おおかた同意見とすら言えるのかもしれません。
「「ガチャは人生」というのは比喩の中身を共有している前提ならば気の利いたアナロジーですが、それ以上ではありません」というコメントもLWさんから個人的にいただきました。

上の『LWのサイゼリヤ』の応答記事のガチャ論をじぶんなりに理解した限り、ようは「一回性」あるいは「不可逆性」を(シミュレーション)ゲームにとって本質的な魅力だと考えているということでしょう。(LWさんのいうところの「重み」「迫真さ」とほぼ同義だと思いますが、詳しく検討すればもちろん差異はあると思います。)

そして、ガチャは一回性/不可逆性をゲーム体験にもたらすために、(三段論法で)ガチャシステムは優れたゲーム体験を提供している、という結論が導き出されています。

【LWさんのガチャ論の自分なりの整理】
前提1
. ゲームのシミュレーション体験を担保する要はプレイヤーの「選択」である。(=選択行為が存在しないシミュレーションゲームは存在しない)
前提2. シミュレーションゲームの選択は「重い」ほど優れている。
前提3. ガチャシステムにおける選択は基本的に不可逆なため、もっとも「重い」選択をプレイヤーに課すといえる。
結論. (前提1,2,3より)ガチャシステムはプレイヤーに優れたゲーム(シミュレーション)体験を与える。

このロジック自体は「なるほど」という感じです。これへの反論として簡単に考えられるのは「前提1/2/3の否定」の計3パターンでしょう。

前提1の否定だったら、本当にゲームのシミュレーション体験において選択肢の存在は必要条件なのか、というところから突っ込むことは可能でしょう。これはすなわち「シミュレーション体験(の本質)とは何か」という議論になります。LWさんは「映画のように分岐しない一本道のストーリーを「シミュレーション」とは表現しません」と述べていますが、芸術のミメーシス(模倣)論とかで「そもそもあらゆるフィクションは現実のシミュレーションである!一本道の映画だって小説だってシミュレーションだ!」的なことが語られていたりしませんかね(読んだことない)。まぁ模倣とシミュレーションは正確には全然違う概念なのでしょうけれど。

またLWさんは(シミュレーション体験のある)ゲームの例としてギャルゲーを挙げていますが、ギャルゲー/ノベルゲームのなかでも選択肢が存在しない一本道の作品は(「例外的な試みの例」として退けることは困難なほどに)たくさん存在します。同人ノベルゲームの短編をあされば、分岐があるほうが珍しいくらいではないでしょうか。そうした一本道のノベルゲームを「シミュレーションゲームとは呼べない」と一蹴することは可能かもしれませんが、ノベルゲームがわりと好きなわたしの実感としては、ノベルゲームの「ゲーム性/シミュレーション体験」の本質は選択肢とは別のところにあると思います。ノベルゲームは「ビジュアルノベル」とも言われますが(微妙な定義の差異は無視する)、まさに「ノベル(小説)的」なシミュレーション体験や、「ビジュアル(映画)的」なシミュレーション体験だってあると思うのです。そういう「一本道の物語を読む(=体験する)ことのシミュレーション体験」は、選択肢によるシミュレーション体験よりもずっと本質的で重要なものではないかと個人的には感じます。まさに、そういう普遍的な「シミュレーション体験」に「ミメーシス」という言葉があてられるのかもしれません(繰り返しますがわたしはミメーシス論をまったく読んでいません)。「選択肢」しか考慮していないLWさんは「シミュレーション」をかなり狭い意味でしか捉えていないように思えます。

前提2「シミュレーションゲームの選択は「重い」ほど優れている」の否定だったら、例えば「そもそもゲームのシミュレーション体験の "優劣" は、選択肢の重みのみによって決まるものなのか」とか「本当に選択しが重ければ重いほど優れたシミュレーション体験であるといえるのか」とかいった反論の方向性は考えられます。(前者は前提1への反論とかなり重なっています。)もちろんLWさんは「シミュレーション体験の価値は選択肢の重みのみに依存する」とは一言もいっていませんが、シミュレーション体験の価値を左右する要素として現状は「選択肢の重み」しか検討できていませんし、彼の文章からは「選択肢は重ければ重いほど(=やり直しが効かないほど)価値がある」ことを無批判に認めているように思えます。しかし、たとえば「選択肢が重すぎたらかえってシミュレーション体験の価値が下がることもありうる」のような、「選択肢を重くすればいいってもんじゃないだろ」系の論だって立てられそうな気はします。直感的に考えて、ずーっと「重い」選択肢を選ばされるゲームよりも、「重い」選択肢と「軽い」選択肢がバランスよく配置されているゲームのほうが楽しく遊べそうな気はします。

またLWさんは「「潜在的にはやり直しが可能である」という商業的な誠実さに裏付けられた余裕が常に分岐に対して付随してしまうというのが真の問題です」と述べていますが、ここで論をひっくり返して、まさにその「潜在的なやり直し可能性」(=「余裕」)こそがゲームにおけるシミュレーション体験の本質である、とは言えないだろうかと考えていました。その「再現性」が、「余裕」が無くなってしまったら、それはゲームではなく現実そのものになってしまう。ゲームのシミュレーション体験を、現実の人生におけるシミュレーション体験と分かつのは「潜在的なやり直し可能性」にこそあるのではないでしょうか。(LWさん的には「そのふたつのシミュレーション体験を区別する必要はどこにあるの? ゲームと現実を、ひとつにまとめてもよくね?」ってことなのでしょうが。)
たしかに何を選んでもまっったく効果がないような「軽すぎる」選択肢は意味がありませんが、かといって重ければ重いほどいいってもんでもない。適度に「可逆性」を保ちつつ、それによってプレイヤーが萎えることのない、軽すぎずも重すぎもしない「選択」の体験を、ゲーム制作者はずっと追求しているのではないかとわたしは考えます。

「選択は重ければ重いほど良い」とすると、それはゲームと呼べなくなるのではないか、という論は、Twitterなどですでに色んなひとが指摘している「不可逆な選択を突き詰めていくとガチャに限らず賭博全般に行きつくのでは。(つまりガチャシステム自体は革新的でも何でもないのでは)」という指摘にも関連すると思います。

(第三者の方のツイートを無許可で掲載失礼します……)



前提3「ガチャシステムにおける選択は基本的に不可逆なため、もっとも「重い」選択をプレイヤーに課す」への反論はあんまり思いつきませんが、選択の「重さ」の極限値として「不可逆性」が想定できる、というのは自明なようでいて、意外と疑問をさしはさむこともできるのではないかと思いました。(まぁそれも基本的には「重ければ重いほどいいってもんじゃない」説の反復になりそうですが)

また、よりラディカルな反論として、「ゲーム体験=シミュレーション体験」というLWさん内の公理を疑う道も思いつきます。ゲーム体験とは要するにシミュレーション体験のことなのでしょうか。あるいは、ゲーム体験の良しあしはシミュレーション体験の良しあしのみによって決まるのでしょうか。

こういうツイートからはやはり「ゲーム体験=シミュレーション体験」という等式を自明視していることが伺えます。

シミュレーション体験とは別のかたちの「ゲーム体験」を想像する余地だってあるのではないでしょうか。上述した、一本道のノベルゲームをプレイするという「ゲーム体験」もその一例かもしれません。なんにせよ、「そもそも「ゲーム体験」とは何か」という点はあまり確認され合わないままに、各々が自分のゲーム体験の定義を自明視して議論しようとしているために、話がかみ合わないこともあると感じています。ゲーム体験とシミュレーション体験をいったん区別してみる、あるいは両者の関係について今一度考えてみることは、そうした方面で有意義な気はします。
LWさんはひとつひとつの「選択」の重さ=シミュレーション体験としての価値だけを考慮して、それをすぐに一直線に「ゲーム体験の価値」に結び付けている節があります。しかしそれは、例えば、すごく上質なシミュレーション体験を提供できていても、他の面で足を引っ張ったりなどして全体の「ゲーム体験」はダメダメになっているゲーム……などを適切に評価することができないでしょう。


やっぱり結局ガッツリ書いてしまった。眠い頭に突き動かされて手癖で書いたので、起きたら自分でも全然納得いってないと思う。


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