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『寝ながら学べる構造主義』を読む 第2章 ソシュール言語学


続きました。


注意書きをコピペしておきますが、本書を読むことにした経緯など、詳しくは前回のnote↑を読んでください。

【ちゅうい】
・このnoteは自分用の読書録です。本書の内容を整理したり、魅力を紹介するものではありません。ご注意ください。
・私はまったくの哲学初心者です。以下いろいろと偉そうに書いていますが、初学者特有のイキりだと思って微笑ましく見守ってやってください。もちろん、間違った解釈などについて"優しく"ご指摘くださるのは歓迎いたします。厳しいお叱りは私が泣いてしまうのでダメです。よろしくお願いします。



2章 ソシュール『一般言語学講義』

1節

ことばとは「ものの名前」ではない。
まず「もの」があり、それに「名前」を付けていくカタログ言語観ではなく、「名前」があって初めて「もの」が生まれる。

なんか中学生の英語習いたての頃に気付いたことと同じだな。
英語(外国語)を義務教育で習う意義って、英語を使えるようにすることよりも、この「言葉が違えば世界の見え方も根本的に違う」ことに気付くためだと思っている。(だから外国語なら何でも良いけど、実用性の観点から英語が便宜的に選ばれている、という考え方)

余談だけど、言語学に限らず、数学でも似たような価値観の転換があると思う。
まず「数」というものが現実にあって(りんごが1個、2個…のような)、それに「1」とか「2」とか数のラベルを貼る、という初等教育の考え方から、
数は現実には存在せず、ただ数学理論(数式)のなかで定義することによってのみ生じる、という大学以降の公理的な数学の考え方への転換。
この転換の最初の兆しは、平方根や虚数を導入するときだ。

平方根や虚数は、
x^2=2 を満たすxのうち正の数を√2 と定義する、とか
x^2=-1を満たすxの片方をiと定義する、のように
「数式(方程式)」が「数」に先立っている。

平方根はまだ実数(数直線)上にあるので、あんまり数式によって定義している感じはピンとこなくて、もともと数直線上に存在しており、ここでは√2という名前を付けただけだ、と感じるひとが多いかもしれないが(これは大きな間違いである)、
実数を離れた虚数・複素数になると、多くの人が「数とは人間が定義することで生まれるものだ」ということに何となく気付くのではないだろうか。
(人間が勝手に作ったはずの虚数が、なんで物理学など自然を記述するときにこんなに役に立つの?というまっとうな疑問については深遠な問いなのでここでは答えられない)



閑話休題。ここでは言語ごとの共同体の中では単語の意味(=世界の見え方)は一致しているように書かれているが、厳密にはそんなことはないだろう。

同じ日本語話者のあいだでも、ある一つの単語から受ける印象は微妙に違うだろうし、また、1人の人間についても、昨日の自分と今日の自分と明日の自分が、ある単語を完全に同じ意味で用いているとは限らない。言葉も世界の見え方も、全てのひとによって異なるし、また、常に刻々とこの瞬間も変わり続けているだろう。

ここで問題なのは、では、なぜ厳密には同じ意味を共有していないひと同士でコミュニケーションが成立するのか、ということだが、これは自然言語の「曖昧さ」によるものだと思う。自然言語は、その名の通り誰かが決めたわけではなく、自然となんとなく形作られているものなので、当然ながら、そこには多少の意味のズレ・ブレを許す曖昧さを含む。

このズレが大きすぎると(日本人とアメリカ人が互いの母語でまくし立てている状況のように)会話は成立しないが、あるていどの小さい範囲にズレが収まれば、あるていどコミュニケーションは成立する。

つまり、会話は成立する/しない、というゼロイチ(デジタル・離散的)ではなく、グラデーション(アナログ・連続的)になっている、と言ったほうが正確だろう。もしもこのnoteを読んでいるあなたが、私の言っていることを何となく理解できているとしたら、それは私とあなたのあいだでの言語のズレが、コミュニケーションが成立する程度の範囲内に収まっているということだ。


語義(signification):語の意味
価値(valeur):語に含まれている意味の厚みや奥行き

「several」と「5,6」は、語義は大体重なっているが価値は微妙に異にしている。
「大体重なっている」と「微妙に異にしている」って意味ほとんど一緒では……?

ある語が持つ「価値」、つまり「意味の幅」は、その言語システムの中で、あるいことばと隣接する他のことばとの「差異」によって規定されます。もし、あることばが含む意味の幅の中にぴたりと一致するものを「もの」と呼ぶとするならば、「ことば」と「もの」は同時に誕生するということができます。 p.66

ここで「差異」が出てきた。

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。 p.66

この「切れ目の入っていない世界」ってのが、サルトル『嘔吐』でロカンタンが木の根に見出したやつなのかな(未読)。


2節

「肩が凝る」のは日本人だけ。
そもそもbackと背中、shoulderと肩だって微妙に違う肉体的部位を指しているのでは?


3節

ソシュールの「価値」という言葉は古典派経済学からのもの。
同じ500mlジュースでも、街中の自販機と、富士山頂の自販機では値段が違う。
同じ「有用性」でもその商品が置かれる状況によって「価値」は違う。

「システム(関係性)のなかで人間が規定される」という構造主義っぽくなってきた。
「言語システムのなかで『もの』の意味・価値は規定される」
つまり、マルクスが社会のなかの人間として考えたことを、言語システムのなかの言葉(=もの)として考えたのがソシュールということか。
社会に先立って「私」は存在せず、言語に先立って「もの」は存在しない。

ソシュールは、私たちがことばを用いる限り、そのつど自分の属する言語共同体の価値観を承認し、強化している、ということを私たちにはっきりと知らせました。 p.72

これはたしかにその通りだなぁ。いまこの瞬間も、言語という権力機構に与しているんだなぁ。

私がことばを語っているときにことばを語っているのは、厳密に言えば、「私」そのものではありません。それは、私が習得した言語規則であり、私が身につけた語彙であり、私が聞き慣れた言い回しであり、私がさきほど読んだ本の一部です。 p.73

これもその通りだなぁ。「このひと良い文章を書くなぁ」と私が思う人って文学(特に海外文学)好きであることが多い。
そのひとが語る言葉・文章は、普段そのひとが読んでいる本の言葉・文章を反映している。
上で言われているのは、このような実際的な意味というよりは、より普遍的・抽象的な意味においてだけど。

p.74
ここで書かれている、「既に出来上がった他人の持論」ではない「出来たてほやほやの私の意見」の特徴はまさに今書いている私のnoteだ。
この本を読んで脳内に浮かんだ言葉を、「話している本人も、自分が何を言っているのかよく分かっていない」ままに書き付けていくので、「同じ話がぐるぐる循環し、前後は矛盾し、主語は途中から変わる」ことが多々ある。
でも、そういう「生の声」っぽいものでさえも、その大部分は実は「もとから考えていたこと」であり(上の虚数の話とか)、その来歴を辿れば「他人の意見」であるのよな。そういうことをここでは言っている。
あと、「脳内に浮かんだ言葉」と書いたが、これもソシュール言語学的にいえば不適切だろう。
「脳内」とか「自分の心の中」に言葉があって、それを外に表現しているというよりも、表現する行為によって初めて言葉が生まれる。

ですから、「私が語っているときに私の中で語っているもの」は、まずそのかなりの部分が「他人のことば」だとみなして大過ありません。(現に、私は確信を込めてこう断言していますが、そんなことができるのは、私がいま「ラカンの意見」を請け売りしているからです。) p.74

ここすき(自己言及大好きマン)

西洋の伝統的な人間観(自我中心主義)に、ソシュール言語学は致命的なダメージを与えた。

構造主義の四銃士(かっこいい)
レヴィ=ストロース:文化人類学
ラカン:精神分析
バルト:記号論
フーコー:社会史

全員名前は聞いたことある!けど読んだことはない!楽しみ!
それぞれ分野が違うのアツいな。そりゃ四天王の"属性"が被ることなんてフィクションではまずないだろうけど……。

構造主義が成立したのが1920~30年代、プラハ学派によるもので、
1940~60年代が↑四天王(四天王ではない)の第3世代ということは、
量子力学の成立がだいたい構造主義の成立と同時期か少し前くらいなのか。
(身近な学問史と対応させて時代観を掴む)

1925年 ハイゼンベルク行列力学
26年シュレーディンガー方程式
28年ディラック方程式
(wikipedia「量子力学」参照)



自分のnoteとしては少し短め(3,400字)だけど今回(2章)はここまで!
続くかどうかは知らん!

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