見出し画像

祝・映画感想ポッドキャスト50回! 『グリーンブック』『HELLO WORLD』etc.

友人とふたりでポッドキャストを始めてもうすぐ1年が経ちますが、今週の更新でついに記念すべき50本目となりました!

50本目は青春SFアニメ映画『HELLO WORLD』(2019)ですが、ここ数回の更新を軽く振り返っておきましょう。

第45回が『劇場版 からかい上手の高木さん』回で、その次が古き良き50年代アメリカの傑作ミュージカル映画『バンド・ワゴン』回です。このジャンル・年代の振れ幅の大きさが我々のポッドキャストの特徴といってよいでしょう。

『バンド・ワゴン』はマジで個人的に大ヒットで、久しぶりにオールタイム・ベスト映画トップ10が入れ替わりました。ダンスってすごい!ミュージカルってすごい!人間ってすごい!映画ってすごい!な「全部賛歌」映画だと思ってます。

お次は10年代アメリカ・フロリダの貧困社会の現実を、映画という手法でまざまざと描き出した『フロリダ・プロジェクト』。「真夏の魔法」という邦題は何重にも趣味が悪いと思います。いやぁ、心苦しかった・・・。まぎれもなく、「映画」というフィクションの力を信じ抜いているからこそつくることができた作品ですが、それゆえに、ただ、心に来る……。

配給会社A24は『ミッド・サマー』なども手掛けていて、洋画素人のわたし的にはそこそこ推しの配給会社です。いちばん好きな洋画『人生はローリング・ストーン』や同監督の『いま、輝くときに』などもA24なんですよね。最近だと『エブエブ』や『ホエール』が話題になってますね(観てない)

お次はイギリスのコメディクライムサスペンス映画。真っ向勝負のエンタメとしてとても面白かったです。

『グリーンブック』はわたしでも聞いたことあるくらいには超有名なアカデミー賞受賞映画。「いい映画を一本観た感」を味わうのには最適な一作でした。

そして『HELLO WORLD』。しばらく洋画が続いていたので5本ぶりのアニメ映画。これについては先に自分の感想をnoteに投稿しました。

すると、Twitterで、『HELLO WORLD』ガチ勢の方が好意的にツイートされているのを発見しました。

ありがとうございます!!

わたしのnoteを読み慣れているひとであれば、絶賛だろうが酷評だろうが「そこそこ良かった」だろうがこいつは何万字もダラダラ感想を書くのが平常運転だとわかって下さっていると思いますが、初めての方には「ツンデレムーブ最高」と称されるのか!とクスっとなりました。ラストの展開などに関しては、上に貼ったポッドキャストにて、相方にさんざん説明されたうえで、何十分もウダウダと話し合っているのでぜひお聴きください。(聞いて後悔する可能性が70%くらいありますが…)

ツイート主のALL TALEさんがどれだけ『HELLO WORLD』ガチ勢かというと、ちょっとnoteを覗いただけでも『HELLO WORLD』関連の記事を何十本も書かれているのが把握できるくらいです。ヤバすぎ。わたしは「アスノヨゾラ哨戒班」関連noteを4本しか書いてないので、完全にわたしの負けです。参りました。(好きなものを語った文章を書いてれば書いてるだけ偉い、な価値観に生きている人並感)


ラストの解釈を含め、『HELLO WORLD』という映画をより楽しんでいるのは、わたしよりもむしろポッドキャストの相方のほうだと思います。(ALL TALEさんが喜びそうなのも)
その相方から、『HELLO WORLD』回で議論したことを、数週間かけて反芻して考えをまとめた、とのことで、文章をことづかっているので、以下に掲載します。


~~コピペはじめ~~


まえkqckと話したとき、kqckが書いたnoteに対してALL TALEさんという方が反応をくれた件についての話題になった。

ALL TALEさんは、ラストシーンの解釈について説明を与えてやればkqckも目からウロコが落ちたように一行瑠璃/イチギョウルリさんのことが好きになるだろうと思っているのかもしれないが、ラストシーンの解釈について突っ込んだ話をする、というのは、“感想トーク”のなかで僕がすでに通った道だったので、『やっぱり、ちょっとはそう思っちゃうよね、わかる』とにやりとした。


ラストシーンがまあまあ好きかけっこう嫌いか

感想トークの内容について少しネタバレをすると、僕は『HELLO WORLD』のラストシーンがまあまあ好きで、kqckはラストシーンがけっこう嫌いだ。で、僕は僕なりのラストシーンの解釈をkqckに話してみたけど、目からウロコなんてことはなくフツーにその解釈を拒否られた。草。

感想トークのあともあれやこれや考えてみたが、ラストシーンに対する好悪が真反対だから僕とkqckは好みが真逆、かといえばそういう話でもない気がする。むしろ、僕とkqckは『世界の複数性』というアイデアに対して妙な執着を持っているという点に関してはまあまあ共通しているんじゃないかと思う。加えて、『複数世界間の相対性の堅持(妥当な理由がない限り、どこかひとつの世界が特権的に真なる世界であることを認めない)』という立場に謎のこだわりを持っている、という点でもかなり感性が近いんじゃないかと思う。
では、私と彼との違いは、映画のラストで一段階上の世界が登場した、という事態を『複数世界の相対性がより強化された』ととらえるか『特定の世界の特権性が唐突に主張された』ととらえるか、というあたりにあるのではないか。しかしまあ、こんな違いは本質的な好みの違いではない、せいぜい偶然的な違いだと言ってしまいたい。

僕からすれば――僕は、SFの主要な楽しみの一つとは、『一見してそれほど意外ではない命題を一つ二つ認めることが、その命題から演繹されるすべての異常事態を認めることにつながっていた、とあとになって気づく』という体験だと思っているので――映画の冒頭において『現実だと思っていたものが実は記録でありうる』というテーゼが一度でも提示されたら、その後はすべての“現実”に対してそのテーゼが適用されるのは必然だ、と思われる。映画中盤で、『先生』がいた世界が実は記録であったことが判明する展開も「まあ鉄板だな」という感じではあるし、最終盤が新たなる“現実”が提示される展開であったとしても、その“現実”も記録でありうる、という態度でしかそのシーンを読み取れない。
(これはあんまり関係ないが、世界同士の関係はあくまで相対的であるので、高校生である堅書直実の主人公性と妙齢のイチギョウルリの主人公性(などを含めた複数の主人公たちの主人公性)はとくだん矛盾することなく並立する、とも思っている。)
(ひょっとすると、カント主義者などからすれば、個人の実存を認めることと、法則の一般性を認めることとはセットとして語られるべきものだろうか?)
kqckからすれば――これは想像――映画の時間的線状性を重視する立場であるので――一方向に流れる映画の時間の中で、ラストに位置するシーンで新たな(しかも最上位の)“現実”が提示されるということは、その“現実”の特権性を主張する行為に等しい、と思われる。映画における大半の時間、これといって頑張っていないし賭けていないにもかかわらず、一行瑠璃とその背景世界が、最後だけ顔を出して身の丈に合わない特権性を主張するのは後出しじゃんけんにも等しい蛮行だ。

こんな風に、自分とkqckの理路を、理解できるように理解してみれば(他人の考えは理解できるようにしか理解できない)、『まあ、僕があっちであいつがこっちだった世界線も全然ありうるな』なんて、僕には思えるんですが、どうでしょうか、kqck氏?
(2人の違いを生む要因として、『映画をなるべく途中で切らずにひとまとまりのチャンクとして観たい派』か『映画の時間的線状性を重視したい派』か、という差もあるのかもしれないしないのかもしれない。というか、そもそもこの2派は必ずしも対立するものではない。)
(『SSSS.GRIDMAN』の最終回実写パートを『虚構否定』ととるか『虚構肯定』ととるか、という差も、ここで僕が想定しているのと同じ、せいぜい偶然的な違いではないか、と思うのですけど、どうでしょう?)

ま、偶然的な違いにせよ、必然的な違いにせよ、僕とkqckがお互いに好みを譲る理由なんてないんですけどね。


僕の好みのヒロインについて

『HELLO WORLD』について話して以来、自分の好みのヒロイン像について考え直すところが多かった。感想トークの補足として、最近わかってきたところをちょっと書いておきたい。

①ゲーミングヒロイン
僕は、浮世離れした目的・目標に対して邁進するヒロインがけっこう好きっぽい。
具体例でいうと、『メイドインアビス』のリコさんなど。アビスの底に到達したとしても一銭にもならないが、リコさんみたいな異常者にとっては、それはアビスを目指さない理由にはならない。万人には共感できないタイプの欲望に突き動かされてアビスの底を目指しているリコさんのことが好き。

②オリチャー爆走ヒロイン
類例が見当たらない、ヘンテコな作戦を駆使して目標に到達するヒロインがかなり好きっぽい。
具体例でいうと、まずは『エヴァンゲリオン新劇場版』のマリさん。僕の理解している限りでは、マリさんの主な動機は「因果の彼方に一抜けしやがった碇ユイとかいう女に、『私ならもっとうまくやれるが?』と成果を見せびらかしに行きたかった」というものなのだが、そのように理解したときの、マリさんが目標に向かうための動きが、まあヘンテコで見逃せない。
あと、直近でいうと、『水星の魔女』のレディ・プロスペラ、いったいどんな最終目的に向かってどういうルートを頭の中で描いてるのか、まだまだ全貌が見えないけど、今わかっている部分だけでもたいがいオリチャーで面白い。

③マグナ・マーテル系ヒロイン
宇宙全体の秩序を一手に担っており、担っているがゆえにめったに顔を見せないが、実はどこにでもいる、そんなヒロインがちょっとだけ好きっぽい。
具体例でいうと、『まどか☆マギカ』のまどかさんとか、『魔法つかいプリキュア!』のことはさんとか?

で、③マグナ・マーテル系ヒロインに関しては、正直そこまで強い執着があるわけではないんだけど、ただ、目先の価値観に縛られない①ゲーミングヒロインと最大限好き勝手する②オリチャー爆走ヒロインが複合したとき、結果的に③マグナ・マーテル系ヒロインでもある、という例はけっこうよくあると思う。
3タイプ複合の具体例でいうと、やっぱり外せないのが『エヴァンゲリオン新劇場版』の語られざるヒロイン:碇ユイさん。初号機は実質碇ユイさんでもあるので、作品の顔、ビッグブラザーといっても過言ではないよね?
あとは、ちょっと毛色が違うけど『まどか☆マギカ』のほむらさんとか。「大切な人と世界の秩序、どっちをとるか」みたいなカスの問題系が一秒も出てこないあたり好感度が高い。大好きかって訊かれたらちょっとよくわからないけど……。
(あんまり関係ないが、『HELLO WORLD』という映画、「大切な人と世界の秩序、どっちをとるか」みたいな話になりそうでギリギリならなかったのが、僕のなかで好感度が高い。狐面が一行瑠璃を排除しようとした理由が、歴史改変云々みたいな問題かと思いきや、単にアドレス重複の問題だった、というところとか。2047年のイチギョウルリが「2027年に一行瑠璃が脳死したシナリオ」を構築することを選んだ理由として、「歴史の大枠を守るために直実か瑠璃のどっちかが死ななければならない」みたいな問題はおそらく全く関係なく、「カタガキナオミの外側と中身を一致させるため」という事情にのみ関係しているであろう(現状では僕はそう解釈している)、ということとか。)


あるいはおすすめかもしれない作品とか

『HELLO WORLD』のこととか、自分が好きなヒロインのタイプとか、考えていたら、『HELLO WORLD』に通ずるところがある作品を2つ思い出したのでお知らせしておくか……。

『メランコリア』道満晴明(マンガ 全2巻)

『百万畳ラビリンス』たかみち(マンガ 全2巻)

どっちもヒロインがめっちゃ好き。ちなみにエロ漫画ではない。



~~コピペおわり~~


いい文章でしたね。面白かった。ちなみにわたしは『メランコリア』も『百万畳ラビリンス』も特に好みではなかった……というか、まったくどんな話だったか覚えていない程度にはどうでもいい漫画でした。むべなるかな。

こんな風に、自分とkqckの理路を、理解できるように理解してみれば(他人の考えは理解できるようにしか理解できない)、『まあ、僕があっちであいつがこっちだった世界線も全然ありうるな』なんて、僕には思えるんですが、どうでしょうか、kqck氏?

と尋ねられているのでいちおう答えておくと、Spotifyに投稿された我々のギロンをさっき退勤時に聴き返していて思ったのは、わたしが『HELLO WORLD』のラストシーンを「拒否」するのは、わたしが『映画の時間的線状性を重視したい派』だからとかではなくて、単に、わたしがラストシーンを無視して気持ちよく数千字の初見感想文を書いて満足してしまったので、そのあとで作品イメージを変える(修正する)のは自分の満足度を減ずることになるから、です、おそらく。う~ん、幼稚!w 保守主義者!! 身も蓋もねぇ・・・。

作品の正確な受容よりも、自分の作品評(を書く行為)に付随する気持ちよさを優先している、ということですね。これが本当なら、わたしは、少なくとも誠実な作品鑑賞のためには、金輪際、noteなどの感想文を書かないほうがよいのかもしれません。

ただ、一度感想を書いた作品でも、「……このような作品受容で本当にいいのか?」と不安になって再鑑賞をして、結果的に、以前の自分の評を否定して新たな受容を自分の中に打ち立てることもあります。このタイプの作品の代表例が《国》シリーズで、自分は一生かけて再読を繰り返して、自らの《国》シリーズ評の再考をしていかなければならない、と何の迷いもなく思っています。(ALL TALEさんにとって『HELLO WORLD』がまさにそういう類の作品なのだと思います。)

要するに、自分にとって大切な作品であれば、なるべく真摯に向き合いたいし、一度書いた程度の感想・解釈・論なんて何度でも打ち壊して組み直していきたいと思えます。しかし、日々鑑賞するあらゆる作品に対して、そのレベルの真摯さを貫くことは、今のじぶんには難しいです。すべては趣味であって、気が乗らないものを義務感でイヤイヤやるものではありません。好きなことだけでいいです

『HELLO WORLD』は、少なくとも今の自分には、それほど大切な作品ではない。一回観て「そこそこ良かった」と見做すくらいの距離感が好ましい作品だということでしょう。もちろん、ここから「一生モノの作品」にどんでん返る可能性はゼロではありませんが、それは日々鑑賞するあらゆる作品──ボロカスに貶す無数の作品──に言えることです。

ちなみに、自分にとって、「一生モノの作品」に出会うことが日々色んな作品を鑑賞することの目的ではありません。「大切な作品」に出会えたらアタリで、「自分には特に何でもない作品」だったらハズレ、ではありません。そうではなくて、むしろ、一つ一つの作品に出会って、それが自分にとってどういう類の作品になるのか、ということを見極めていくプロセス自体がいちばんの楽しみです。言い換えれば、ひとつ作品を新たに鑑賞するごとに、自分とその作品との、一生つづく「付き合い」が始まります。これは「一生モノの作品」に限らず、すべての作品とのことです。その「縁」を増やして育んでいくことがこの上ない喜びであり、自分が死ぬまでの暇を潰すとしたらこれくらいしかやる価値のあることはこの世にないと思っています。


あれ? なんでこんな大層な人生論みたいなことを書いてるんだろう・・・? 手癖ですねぇ~~

えーと、ポッドキャストは50回で区切りがいい感じに書きましたが、52回で(だいたい)1周年ということで、「シーズン1」終了になります。シーズン1の振り返り特別回を、こないだのGWで収録しました。もうシーズン2の鑑賞・収録も始まっております。

YouTubeアナリティクスによれば、「マジで誰も聞いていない」正真正銘の自己満足・自分用ポッドキャストですが、今後も引き続きよろしくお願いします!!! 


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?