見出し画像

見えない湖 5

 ダンさんが物音を立てないように帰ってきた。僕は居間で白い紙に昼に見た魚を仕留める案を出しているところだった。時計を見ると、夜中の一時だった。ダンさんは時々、帰って来るのが遅いときがある。その時は、白のタートルネックのシャツに黒いジャケットを羽織って、黒のスキニーを履いていることが多い。いつも家の中では夏も冬も関係なく、半袖半パンを着ている。ダンさんは、「どうせ外に出る時には作業着を着るからいいじゃないか」と言っている。プールの日に中に水着を着る小学生みたいだ。そんなダンさんばかり見ているため、このフォーマルな格好には違和感を覚える。
「ただいま。まだ起きてたのか」ダンさんはいつもよりワントーン低い声で言った。
 遅い日は、いつも疲れた顔をしている。僕には、農作業や家事など日々の暮らしの方が忙しく、大変なように思える。しかし、この遅くに帰って来る日だけは生気を失ったような顔をしている。
「お帰りなさい。あんまり寝付けなくて」僕は言った。今日も聞けなかった。どこに行っていたのか。ダンさんは、喋り出しそうにもなかった。
 目と唇に輝きの色はなく、日々をこなす家畜のような目をしていた。そんな人物に、声をかけることなんて出来なかった。
「僕はもう寝る」と言って寝床に向かった。
僕はそのいかにも消え入りそうなダンさんを見るのが嫌いではなかった。なぜなら、人間を感じることができたからだ。常に快活で、誰にも泣き顔を見せないダンさんの人間としての顔を見ることは、僕にとって嬉しかった。誰が何と言おうとダンさんは生きていた。しかし、いつも快活で笑顔のダンさんの生気を無くすことがあるという事実は、僕を不安にさせた。
 この生気のない日にダンさんはご飯を食べない。ダンさんの後ろ姿を見送り、自分の部屋に戻る。ダンさんにはまだあの湖のことは話していなかった。どのタイミングで話すべきか迷った。それに、あれからまだ一度も山に行けていない。もう一度確かめに行きたいと思う。しかし、あの時の生物は幻想だったと思うのが怖い。ただあの生物が存在し、僕を何かに導いてくれることを信じたい。
 明日になれば、ダンさんはまたいつものダンさんに戻る。人間と思わせないような、笑顔でいい空気を作り出すダンさんに戻る。そのダンさんに話せば、僕の話を相槌を聞きながら聞いてくれるだろう。それは嬉しくもあり、辛くもあった。
 ぐるぐると頭の中に思考が駆け巡り、寝ることができなかった。目を瞑った暗闇で、ダンさんのことを想像してしまった。ダンさんとはそもそもどういう人なのだろう。過去の話はいつもはぐらかす。もしかすると、借金を抱え、こんな田舎町に移り住んでいるのではないのか。もしかすると、人には言えない商売をしていて、都会には住んでいられないのではないか。もしかすると、殺人犯で、身を隠すためにこの田舎町に移り住んでいるのではないだろうか。不安は不安しか呼ばない。どの『もしかすると』も現実的なようで、現実的ではなかった。
 眠れないため羊を数えることにする。最初の二十頭までは順調に数えることができた。しかし、そこからは羊がダンさんに代わり、人相の悪い人に追われている映像に変わる。一緒に住んでいる僕も同じように連れ去られていく。連れていかれたところは、地下の監獄で、借金の返済までに重労働を課せられる。非常に暗く、血と汗と鉄の匂いがする。人が岩を砕く音と機械音だけが大きく鳴り響いている。何もない部屋で僕は、過去の過ちについて永遠に考える。過去と未来の暗いことについて考える。そこには、今はなく、どの線をたどっても明かりを見つけることができない。光さえもなく、誰かに作られた、いかにも切れそうな線が見えるだけだった。その縁の上を二本足で歩く。綱渡りのような線は、いつ落ちてもおかしくなかった。下を見てみると、暗黒の世界だった。落ちたところは多分『死』だ。僕にとっての『死』は暗く、終焉で無だった。細く脆い線の上を落ちないように必死に歩く。渡り切った後には必ず光がある。今は見えないけど、そう信じるしかなかった。世間は必ず、未来を信じろ、と言うだろう。それでも僕には、光が見えなかった。今は立ち止まっている方が怖かった。少し後ろを振り向いて見ると、線は徐々に消えてきていた。


この記事が参加している募集

私の作品紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?