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見えない湖 1


 僕はこの前、小人を見ました。
 小人は川で鯉を釣っていました。一人では抱えきれないため、釣った鯉は二人で大事そうに抱えていました。僕は手伝おうと考えましたが、警戒して逃げてしまい、小人の大事な食糧を捨て去ってしまうと申し訳ない、と思ったので何もせず眺めていました。すると、小人は増えて、みんなで鯉を運んで行きました。

 と言っても、誰も信用してくれないだろう。僕はいい大人だ。冗談に思われるに違いない。しかし、ここでは違う。全員が信じてくれるわけではないが、信じてくれる人が一人いる。それだけでだいぶん違うのではないだろうか。そんな生活を送ることが出来て満足している。そんなことを考えながら帰路についた。
 砂の匂いがする。地面から乾燥した砂が舞い上がる。僕は、木製の引き戸を両手で開けた。砂が敷居に挟まり、開きにくくなっている。築何十年か分からないが、相当な月日が立っている木造の一軒家に入る。玄関に入ると、ヒノキの匂いが漂う。
「ただいま戻りました」僕は家中に響くぐらいの大きな声で言った。
「おかえりなさい」少し遠くで声が返ってきた。
 僕はこの家に来てから、もう三年ほど経っている気がする。正確には分からない。時間が分からないほど、濃密で新鮮な時を過ごしている。自分の歳も曖昧だ。多分、二十歳ぐらいだろう。
 ここでの生活は不思議だった。生身の人間といい関係を築くことができない僕が、一緒にいても苦にならない人物と暮らしている。その人は笑顔とは違う、何かを含んだ表情で僕に接する。僕にだけではない。村の人にも同じような表情をしている。
「今日はどこにいってたんだい?」初老の男が聞いてくる。
「山へ散歩に行ってきました」僕は少し考えてから答える。
「それは一番いいこと。人間が生きているということを実感できるのは、動物と植物と戯れた時だけだから。これは僕調べだけどね」
 その男はダンさんという。なぜそういう呼び方になったのかは覚えていない。村のみんながそう呼ぶから僕もそう呼んでいる。歳もいくつか分からない。四十代にも五十代にも見えるが、時に二十代にも三十代も見える。髪は長髪で、いつも後ろで髪の毛を括っている。髪の毛のわりには髭があまり生えていない。誰でも垣根を超えて入っていけるような不思議な雰囲気とオーラを持っている。もう秋なのに、半袖と短パンを履いている。ダンさんは、轟々と燃えているかまどに一つずつ薪をくべている。その火によって照らされた顔からは、生きる意志が見てとれた。
「今日は『テマテマ』だったんですか?」
「そう。暇人には用事が大事なんだよ」ダンさんは言った。
「テマテマ」というのは、この村で流行っている遊びだそうだ。僕もダンさんからルールを聞いたが、興味がなかったのであまり覚えていない。砂の入ったボウリングの玉ぐらいの大きさのもので遊ぶらしい。

    ダンさんに対して、暇人じゃないじゃないですか、と言いたかったが、噛みそうでやめた。
 ダンさんは電柱に立つカラスのようにすべてを見通した目で僕を見てくる。僕は、その目を直視することができなかった。
「今日行く用事があるってことで、日々の生活にハリを出してる。君が山に行ったように」ダンさんは釜戸の前で薪をくべながら言った。
「そこまでしないとダメなんですか?」
「ダメってことはない。ハリを作るだけ」
「ハリってそんなに大事なんですか?」
「そら大事。精一杯緩めるためにはしっかりとしたハリがないとだめなんだよ」
 ダンさんは薪を締めていた縄を取り出した。釜戸から僕の方に体を向ける。縄を両手で胸の前にピンと張って見せた。その縄は、頑丈で誰にも切れないような気がした。
「君は緩めることも悪いことだと思っていないかい?」
「人間頑張らないと腐って行くじゃないですか。生ものと同じですよ」
 ダンさんは、縄の中央を弛ませる。次の瞬間、縄の両端を両手で思い切り左右に引っ張った。ドゥンと大きな音をたて、縄が一直線に張った。その大きな音は、部屋中に響き渡った。
「緩めるとしなりが出るんだよ。張っているだけでは意味がない。かといって緩めるだけでも意味がないんだよ。しならせるべきなんだ。『しなり』はハリよりもユルミよりも強力なんだ。ユルミもハリも脆くて弱い。でも『しなり』は速くて強い。それに『しなり』は常に変化して読めない。そういう強みがあるんだよ」
「確かに強そうではありますね」
「でも、何かの力が加わらないと『しなり』は表現できないんだ」
 ダンさんはまた笑顔になって、地面に垂れた縄を上下に振る。振る手を徐々に速くしていく。そうすると、空気を切るように縄が空中で泳いだ。縄は空中で踊る竜のようだ。羽ばたく蝶々のようにも見えた。それは、『しなり』を見事に表現していた。しかし、『しなり』の本質には僕はまだ近づけなかった。
 ダンさんは縄の動きを止め、そのままかまどに縄を投げ込んだ。先ほど見せた確固たるハリも力の抜けたユルミも優雅な『しなり』も、一瞬にして消え去った。ぼおっと見つめる先には、かまどという体内に燃え上がる炎が見える。
「ところで今日の晩御飯はなににしよう?」ダンさんは、手をパタパタと顔の前ではたきながら言った。
「大根と肉の煮つけがいいです」
「君はいつもいい線をついてくるね。いいセンスしてるよ。線だけにね」
 僕は今日の晩ご飯を想像して、よだれが出てきた。

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