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見えない湖 3

 昼になると、気温が上がってきた。小鳥の囀りも気づけばなくなり、体が起きて何かをしなければならないと言っている。しかし、何もすることなくただ部屋でぼっーとしていた。
 この場所には、他の世界を知る術がなかった。パソコン、携帯電話、スマートフォン、テレビ、ラジオ、新聞など一切のメディアが無かった。あってもいいのだろうが、ダンさんが持ちたくないだけなのかもしれない。それに関しては聞いたことがないが、ここでの生活はメディアが無くても困ることはなかった。
「僕がここにきてどれくらい経ちましたか?」僕は意地悪のようにダンさんに聞いた。
「そこのカレンダーを見たらいい」ダンさんは、縁で木の椅子に座っている。手には、いつの時代か分からないぐらい日に焼けて、ボロボロな本が包み込まれている。
「カレンダーがいくつもあって分かりません」
 居間には家具はあまりないが、カレンダーが6つほど存在していた。世界の絶景が写真で載っているカレンダー、この地の観光名所が載っているカレンダー、子どもの絵とともに一言が書かれているカレンダー、日にちだけが羅列しているカレンダー、詩が書かれている日めくりカレンダー、名言が書かれている日めくりカレンダー。こんなにもカレンダーを部屋に飾っておく意味が分からなかった。しかし、どのカレンダーも月も年号も異なっていた。
「滝みたいなのが載っているカレンダーを見てごらん」
 表紙のままの世界の絶景が写真で載っているカレンダーをめくってみた。そこには、日記のように一日のことが一言書かれていた。このようなカレンダーに、予定ではなく日記を書いているのを初めてみて驚いた。
 パラパラめくっていくと、『少年来る』と、書かれている場所を見つけた。
 九月八日だった。今が十一月の半ばだから、ここにきて二か月が経っていることが分かった。しかし、そんなことはない。
「僕はここにきてから二か月ですか?」独り言のように僕は言った。
「それ二年前ぐらいのやつだから、違うと思うよ」
「じゃあなんで見せたんですか」
「なぜそんなに君は時間を気にするんだ?」
「いや、それは気にしますよ。僕も進歩して生きてるんで」
「進歩しているか。すごいね。どんな生物になるんだろうか」
「僕は日々進歩しながら生きているんです。自然と触れ合い、人生の師匠とよべる人とともに暮らしているんですから、その経過を知っていたいじゃないですか」
「僕は君の師匠でも教師でもない。君に教えることなんて何もないよ。ところで、君は成長して何になりたいんだ?」
 沈黙が流れる。僕は何になりたいんだ。外では自然の音楽が聞こえている。
「それを探してます」
「それは探して見つかるものなのか?君がもしそのなりたいものになった時にはどうするんだい?」
「それは分かりません」
「肩肘張り過ぎだよ。なりたい自分になったところで幸せとは限らない」
「どういう意味ですか?」
「なりたい自分になろうともがいている自分が好きなだけなんだ」
「僕は自分が大嫌いでです」僕は言う、「今も昔も。だから好きになれるようになりたいんです」
「君は剣ばかり作ってるね」
「え?」
「そんなに剣で自分を守らなくていい。ちゃんと盾も作らないと。僕は君のことちょっとは分かってるつもりだよ」ダンさんは立ち上がって言った。「この話はまたにしよう。こんなにいい天気だから外に出ないと」
 縁側を見てみると、徐々に黄色に光ってきていることが分かった。その光によって、外の景色が明るく、鮮明に映っていることがわかった。だが、僕の心の中のモヤモヤは残っている。
 ダンさんは縁から玄関に向かった。白だったが汚れで色が分からなくなっている靴を履く。そのまま外に出た。ダンさんぐらいの年であれば、まだ隠居するのは早いと思う。もう少し金を持っていて、家庭を持ち楽しくしていてもおかしくはない(ダンさんは違う意味で楽しんでいるが)。
僕も玄関にあるサンダルを履いて、外に出た。ダンさんは、両手を上にあげ深呼吸をしていた。ダンさんは、いつも手は横に広げず、上に広げて深呼吸をする。
「気になってたんですが、なぜ手を横に広げないんですか?」
「すべての事に意味があるとは限らないよ。しいて言うなら、少しでも宇宙に近づけるからかな」
「宇宙に近づけるか」ここも宇宙じゃないですか、と言おうとしたがやめた。
「ほんとは何となくだよ。いい言葉だね何となくって」
 僕も何となく両手を上空に伸ばす。腕や横腹の筋肉が弓の糸のように張っている。お腹や胸の筋肉にも刺激がきた。宇宙に近寄った気分にはならなかった。だが、体にあった苦い粒が何となく潰れた気になった。


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