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籠もる⇔抜け出すを積み重ねる -生い立ち④大学生時代-

 生い立ちシリーズもラストの大学生時代編。この辺りから記憶も鮮明になってきているので、だいぶ書きやすくなりました。笑 幼少期とか憶えてへんわ!というのが正直なところですが、逆に記憶していることを紐解くと自分の本質が分かりますよね。過去記事はこちら↓

田舎者、京都での生活がはじまる

 高校を卒業して、僕は京都市内にキャンパスがある大学に入学しました。なので、必然的にお引越し&一人暮らしのスタートです。この時の心境としては、高校入学時と同様に「新しい環境が楽しみやー!」という感じ。高校生活もやり切ったし、一人暮らしや京都でのキャンパスライフに心躍らせていました。京都へ出発する日は軽音楽部の仲間とスタジオに入って送り出ししてくれたり、実家を離れる寂しさもちょっぴり感じたり。

 大学は社会学部で緩めの雰囲気だったので、周囲は大学生活遊ぶぞー!みたいな人も多く、僕もその一人でした。オリエンで先輩から「この学部は単位が空から振ってくるよ」と言われて、「選択は間違いなかった・・」と悟ったのを今でも憶えてます。笑 ベタに学部の友達と仲良くなって、サークル見学回りをしたり、先輩に連れられて京都市内の色んなトコへ遊びにいったり、軽音楽部に入ってバンドやったり、目的も無く友達の家でダラダラ過ごしたり、、というthe大学生活をしていたと思います。

 一方で、田舎から出てきた者としての劣等感みたいな意識もありました。the大学生活をそれなりに楽しむ反面、私立大学ということで、それなりに恵まれた家庭の友達が多く、身につけて服装から住んでいる部屋の間取り、お金の使い方など、自分との違いを感じ始める。ちなみに僕は入学金はや家賃などの初期費用は親から支援してもらいましたが、その後の生活費や学費は自分で稼ぐという前提で進学をしていたので、そりゃオシャレはしたいけど、1枚6000円のTシャツとかにお金は出せない訳です。(背伸びして買ったりもしてたけど、1年時に買ったそのシャツは4年まで着つづけるという貧乏根性)

 本当にお金が無いけど、付き合いとして使わざるを得ない。どうしても「お金が無くて・・」と言っても、冗談で返されるような事もあって、何だか疎外感を感じる瞬間も多々ありました。そんな僕でも受入れてくれた器の大きな先輩も居たのは本当に感謝だったなー。

 キャンパスライフをエンジョイしつつも、そんな状況なのでアルバイトをして学費を稼がなくてはなりません。下宿先から近い飲食店でのバイトを始めたり、サークルの先輩から紹介してもらって先にも入って掛け持ちしたり、慣れはじめた京都での生活は徐々にアルバイトで埋まっていきます。その隙を縫って遊んでいたので、元気に楽しくやっていましたが、暗雲な雰囲気も徐々に出てまいります。

また籠もる、何のために大学へきたの、、?

 まず、学部のお遊びスポーツイベントで右膝の前十字靭帯を断裂します。ママさんバレーの試合で、ちょっと経験者ヅラしてはしゃいだ結果、着地をミスって自爆です。笑 私生活はなんとかできましたが、バイトを続けるのは困難、所属していたバンドも辞めることに。靭帯再建手術も必要だったので、1年生最初の夏休みは実家に帰って入院生活でした。ああ、僕の夢見たキャンパスライフはどこに・・・(入院中お見舞いに来てくれた高校の仲間たち本当にありがとう)

 退院後もリハビリだ通院だでほぼ夏休みの時期を実家で過ごし、後期が始まるくらいに京都へ戻ります。この頃は、親に心配かけたという気持ちもあって、「とりあえず学費をしっかり稼がないと、、周囲の友達と自分は違うんだ」と言い聞かせながら帰京。アルバイトの掛け持ちだけでは厳しかったので、新聞奨学生という制度を使うことにしました。これは姉も使っていた制度で、朝刊配達や集金業務をして生活費+貸与型奨学金をもらうという制度でした。

 所属する販売店も決まり、それまで暮らしていた下宿先から寮へ引っ越し、朝3時に起きて朝刊を配り、昼間は学校、夕方は集金が新聞販売店業務をする日々。休みもほぼ無いので、遊ぶ時間もほぼ無くなり、むしろ慣れない朝刊配達で大学に行くのもやっと、という生活。仕事は何とか飲み込めていたものの、それまでの生活とのギャップ、販売店から振られる仕事の多さにめっちゃストレスを感じ、暴飲暴食し、太る。

 他とは違うと分かっていながらも、必死に「受けれよう、受入れよう」と、泣きながら新聞配達をしていました。自分にはこれしか道が無いと。

 親に迷惑をかけないとか、安定した収入を得たい、というマインドが強かったので、1年の冬なのに公務員試験の勉強も始めたりしてました。半年前には考えられない灰色キャンパスライフ!笑

 それでも「あれ?学費稼ぐ為に大学きたの?何しにきてるの?」とぼやいてる心の自分も居ました。

このままじゃアカン!また突き抜ける

 そんな状況で日々を過ごしていたのですが、通っていた飲み屋のマスターや常連さんとの出会いをきっかけに変わり始めます。それまで我慢して働くことでお金を稼ぐ、とか、大人になったらツマラナイ人生、といったイメージを持っていたのですが、楽しく働く社会人と話していくうちに自分の視野がどんどん広がっていきました。

 決定打は「けんごくん、お金ないを言い訳に自分の可能性狭めてない?お金が無いは理由にならないよ」というアドバイスをもらった時に衝撃が走り、「アカン、ここで変わらな、学生生活が灰色のまま終わる」と気づいて行動を大幅に変更。

 実家にすぐ帰って、親や祖父母に頭を下げて生活費や学費を工面してもらうお願いと自分が大学で何がしたいのかを明確に話して納得してもらい京都はとんぼ帰り。新聞販売店を辞め、それでも最低限稼がないといけないお金を得る為にアルバイトを掛け持ち。(新聞配達してた頃よりバイト掛け持ちの方がまともな生活はできた)

 販売店を辞める時は「根性がない」とか「弱いな」みたいな事も言われたり、学業との両立が大変でよく泣いてたり、辛い記憶ばっかりだったけど、大学から少し離れた家賃の安い下宿先も見つけ、引っ越しも先輩に軽トラを出してもらい自前でやって、「ここから再出発するぞ」という気持ちに燃えていました。

 そこから、まともに大学生活を過ごせるようなり、授業とアルバイトをしながらも、時間を見つけて自分の興味関心に従いながら新しい環境へと飛び込み続けました。高校時代のように「今しかできないことをやる」というマインドで、とにかく行動していたなと。

 お世話になった飲み屋のマスターや常連さんと一緒に色々なプロジェクトをやって思考を鍛えてもらったり、市議会議員のインターン生になって選挙の手伝いをして政治の世界を体感したり、広告マーケティングのゼミに入って徹夜で提案書を作ったり、宮城へ震災ボランティアへ行って自分に何ができるかを模索したり、まほロバ(日替わり店長の店)でランチ営業をしながら色々な社会人から刺激を受けたり・・・。

 この時間もあってか、悩みながらも就活は希望する会社から内定をいただくことができ、大学生活をやり切れました。充実した日々は、ここで書ききれないくらい濃い時間だったし↑に書いた色々もさらっと言うてますが、僕の人生で財産となった人のつながりや経験ができた事ばかりだったので、新聞配達からシフトできた経験がいかに大きかったかを改めて感じます。(当時お世話になった社会人の皆さん本当にありがとうございました。。)

 生い立ちシリーズは一旦終わり、次から社会人キャリア編へと続きますが、人生ってやっぱ上手くいく時もあれば、上手くいかない時もあるから、その時の思考や行動の積み重ねで成長することもできるし、切り開けた時の楽しさがありますよね。

 その後も浮上と下降を繰り返しての人生ですが、そんな人間臭い経験が今の僕を形作ってます~。

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