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女社会で育ったマセガキ雨男。-生い立ち①幼少期~小学生時代-

 時期的なものあって、最近自分の内面を見つめ直してます。考えてメモしてグルグルしているだけでは意味がないので、ネタっぽくアウトプットしながら僕という人間を知ってもらえたら嬉しい、、ということで生い立ちシリーズから書いていきます。笑

 僕は茨城県の鹿嶋市という地で生まれて、大学進学するまで生活をしていました。言わずもがな鹿島アントラーズのホームタウン、農業大国、旧住友金属工業の企業城下町。家の隣には畑があって、鹿島灘からの浜風を受けながら畑道や鹿島神宮の神聖な森をチャリで爆走してました。

 そんな場所で育った過程を、記憶の彼方から思い出せる限りで整理。

女性社会の恐ろしさを実感し続ける日常

 僕は3人兄弟の真ん中で生まれ、上に姉、下に妹。両親と祖父母の7人家族で暮らしていました。しかし、僕が小学校1年生の頃に両親が離婚。よくある母親についていくパターンで父親とはお別れしました。「お世話になりました。」って父親が出ていくシーンは今だに記憶に残ってるなぁ。

 そんなこともあったので、家庭内にいる男性は僕とじいちゃんのみ。あとは姉、妹、母親、祖母。僕は真ん中だったこともあってか、温和な性格だったので女性たちの強さに揉まれます。じいちゃんは威厳ある人でしたが、反抗期が激しかった姉からは「じーさん、うるせー!」と言われ、祖母からも「じーさん面倒くさい」とか愚痴られ、威厳はガラガラ崩れていました。

 反抗期の姉、甘えた上手の妹。母親は母親で、会社の愚痴や不満を割りと平気で子供に話すタイプだったので「◯◯はホントに性格悪いわー!」と上司へのディスリとかをよくしてました、冷静に考えるとなかなかの環境。笑

 なので僕の心の奥底には常にこんな言葉がうごめいてました。「女性は裏で何を考えているか分からない」表面的な態度や言葉を信用してはならないと。。なので今でも反射的に見た目の良い女性と話したりする時「この人は何をたくらんでいるのか、、」と無駄なことを考えていまいます。(全くそんなことは無い素晴らしい人格の方たちがほとんどなので僕が悪い。笑)

 そういった環境で育ったので、他人の心境の変化であったり、感じ取ったことに気を回す、ということに敏感。厄介なのは、それが出来ないと勝手に落ち込むこと。

 あ、そんな家庭ではありましたが、めっちゃ仲良い家族で、1年に1回くらいは家族で旅行も行きますし、酒好き一家なので、皆で集まると大学生の飲み会みたいになります。(離婚しても幸せな家庭って築けるんだなと個人的には実感)

どういう事やねん!雨男。

 小学生になると、めっちゃ恥ずかしがり屋だった性格もあって、新たな環境に馴染めなくて少し不登校になったり、言うてる間に友達もできて空き地でサッカーや缶蹴りをしながら盛り上がる、という至って普通のボーイとして過ごしていました。

 運動神経悪い割に外遊びは大好きだったので、休み時間は必ず友達とグランドに出てサッカー、ドッジボール、キックベースなどに興じていました。勉強は好きではなかったけど、それなりの成績はとれていた健吾少年。

 そんな中でヤバかったのが、雨男。はじまりは小学生1年生の遠足。確か、5月中旬に予定されていた遠足がまずは雨で流れて、5月末に。それも雨で流れて6月に。モチロン6月は梅雨なので流れます。夏休み前の7月、こんどこそ行けると思うと、季節外れの台風直撃により延期。

 春に予定されていた遠足はついに9月となってしまいました。たぶんその学年に異常に雨男雨女がたくさん居たんだと。笑 その影響があってか、僕の1個下の代から遠足が秋開催となったようで、後年もずっとその謎伝統が続いたそうです。遠足楽しみにしてる新入生ゴメン。。

 その後の人生でも雨男パワーは発揮され、小学生時代ほとんどの運動会は雨で一度延期になっていたし、イベントごともよく雨が降る生活。大学時代、仲良かった友達と四六時中一緒に居たのですが「けんごと居るとすぐに雨降るから折りたたみ傘持つクセがついた」と言われたほど。

 今でこそ落ち着いたかな、と思っていたら、最近また家で出た瞬間に雨、なんてシーンが増えてきました。「雨やだーっ!!」と涙する子どもの姿が切ないです。お父さん雨男でゴメンよ。。

斜に構えたマセガキ

 そんな生活を送りながら、小学校高学年になるにつれて色んな悪知恵もつけていったなと。

 うちの家はテレビゲームを休日にしてはいけない、というルールがあったのですが、休日になって母親が出かけるとすかさずスーファミを出してゲームスタート。出かけたら数時間帰ってこないので、楽しむには十分な時間で、駐車場に車を停める音が聞こえた瞬間に片付けて何事も無かったように過ごす。

 別のルールとして20時になったら就寝するという決まりがあったので、テレビも20時までしか観られません。みたいバラエティなどは我慢するしかなく渋々寝ていたのですが、高学年になるにつれて考えるようになります。

 2階で妹と二人で寝ていたのですが、テレビは部屋にあったので暗闇の中でテレビをつけて、音量を小さくして見ます。母親が不定期に2階に上がってきて寝かしつけのようなことをしてくれたので(これはこれで嬉しかった)、階段の電気が付いた瞬間にテレビを消して寝たフリ。たまにバレて怒られてワンワン泣きますが、1週間も経てば忘れてまた見る。一度バレたら原因を考えて、母親を察知しやすい場所で見るとか、テレビの光量を絞って階段の電気にすぐ気づくようにするとか、ちゃんとPDCAは回してたと思います。笑

 そんなガキに育ってしまい、小学校の卒業文集で書いた「将来の夢」では「安定した給料も貰えて週休2日の公務員になりたい」と。ネタっぽい意味でも書いてたと思いますが、可愛げの無い小学生だったと思います。。下手に親から職場での愚痴を聞いていたのもあり、平成不況もあり、社会に対する希望や楽しみよりも、ラクして生きる、という感覚が優先されていたんでしょう。

心配性だから考える

 振り返ると、とにかく心配性でした。女性社会の中でどう上手く立ち振る舞おうか、ミスったらやばい、とか。心配性の割にゲームやテレビは見たかったので、心配しながらルールを破るとか。

 今思うとアタマおかしかったんじゃないかと思うのが、夜に地震が起こることを心配して眠ることができなかった。茨城県はよく地震がある地域で、定期的に震度3や4の地震が起きるので、普通にびっくりして夜中に起きることが多々ありました。

 新築の家に住んでいたので、建物が倒壊する恐れは少なかったと思うけど、今度は津波が起こらないか?とか心配して、考えちゃって、眠れない日々を過ごしたことも。。

 そんな心配事と戦う為に、楽しいことを妄想して眠ろうとしたり、豆電球を30秒間見つめ続けられたら地震が起こらない、という謎ルーティンを造ったり、謎にアタマを働かせながら過ごしていました。今思うと、心配性だったから色んなことを考えるようになったのかも。

 ということで生い立ちシリーズの幼少期~小学生時代、終わり。次は中学生時代へ続きます。


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