その不安を分かち合えたなら~教師と子どもが手を取り合うこと~
4月。
期待と不安の入り混じった表情で見つめる子どもたちに、毎年僕は話す。
「僕だけの力では、この学級の、これからの一年を充実させることなんてできない。」
こう言えるようになって、僕はどれだけ学級を楽しめるようになっただろう。
どれだけ、子どもが頼もしく思えるようになっただろう。
どれだけ、子ども達の良さに目を向けられるようになっただろう。
教師が自分の限界と不安を率直に、
そして丁寧に子どもたちと分かち合うことで、
"私たちの学級"がゆっくりと始まっていく。
教師の孤独
未来の代名詞ともいうべき子ども達に関わる教員という仕事には、
他のどんな職にも味わえない喜びがある。
その一方で、教師は孤独だ。
学級では30人近くの子どもの中で、たった1人の大人。
教室では、大人の常識や理屈は通用しない。
子どもからの信頼を集めることができなくなってしまったら…
子どもが言うことを聞いてくれなかったら…
そうした不安がいつも胸のどこかにある。
そんなとき、職員室で話す同僚が心の支えになる。
親身になって話を聞いてくれる同僚は、
僕の不安を和らげ、張り詰めた気持ちを、程よく緩めてくれる。
でも、この安心感には、
十分気をつけなければならないと感じる部分もある。
子ども達の言葉や行動を「有り得ないね」と拒絶したり、
「許せないね」と断罪したり、
「もっと厳しくしなきゃだめだよ」とそれらを僕に促したりする。
そんな時、僕はもう一度、あの時のあの子を思い出す。
そして、自分が納得できる答えは何なのか考える。
教師は孤独だ。
いつだって、どこでだって、孤独だ。
孤独でいいのだ。
職員室の物語と、教室の物語は違う。
大人はついつい、自分の綴る物語が正しく、
子どもの綴る物語は未熟で誤りが多いものだと思い込む。
しかし、それは違うのだ。
物語はいつだって、未完成なまま。
物語は、その場を分かち合う人々によって、
一つ一つ形作られ、
一瞬一瞬綴られていく。
大人達の物語もまた、いつだって未完成なままなのだ。
だから、職員室の物語を教室に持ち込み、
教室の物語を上書きしようとしてはいけない。
僕がこれまで見てきた限り、
学級の物語の外側、
つまり職員室に長くいる同僚や管理職が言う通りに、
学級を運営しようとする担任のクラスは、
次第にバッドエンドに向かっていく。
そうやって、子どもを自分の内に入れない姿勢こそ、
子どもとの距離を広げ、自分の不安を増大させる。
そんな時、教師の孤独は、教師の孤立へと繋がっていく。
子どもの孤独
教室で過ごす一年は、子どもたちのかけがえのない人生の一場面。
どの子も、自分の人生の主役だ。
色とりどりの子どもたちが集まって形作られる学級。
言わずもがな、学級生活は子ども達のものでもある。
しかし、学校では多くのことが予め決められた時期に、
予め決められた手順で進められていく。
先生は計画を崩さない為に忙しくなる。
自分で考えなさい、自分で動きなさいと伝えはするものの、
そこには大人達が設ける見えない枠がある。
その枠からはみ出ると…
運が悪ければ、酷く傷つく事になる。
大人達が描いた物語を完成されていると思いこむあまりに、
物語の中に「その子」のような存在が受け入れられない。
そして、そのことに気付かない。
確かに、その子はそこにいるのに。
だから子ども達は、自分を出来合いのキャラクターに変えて、
迷惑をかけないように、自分を押し殺しながら生きていく。
または、自分を守るために、その物語から去る。
気付くと、自分の人生のはずなのに、自分が置いてけぼりになる。
自分にはもっと出来ることがあるはずなのに…
その不安を分かち合えたなら
僕たち教師は、教室の物語を子どもと分かち合うことを、
より意識するべきではなかろうか。
子ども達を暖め、
子ども達の声に、耳を澄ませる。
虚勢を張らずに、素直に立つ。
雲が晴れ、日の光が差し込むと、
子ども達の心は暖められ、
花が開くように、心からの言葉を発し始める。
教師は、その言葉を喜び、また新たな1ページを綴る。
子ども達に信頼される同僚や管理職は必ず、
何かあった時には教室に出向き、
子ども達の声を聞く。
大人達もまた、その物語に加わっていく。
物語は必ずしも、ハッピーエンドに向かう必要はない。
そこに、その時全力で生きた自分の姿が登場することが大切なのだ。
自分が登場し、みんなと分かち合った物語は、
どんな終わり方であっても、きっと読み返したくなる。
その時に、意味が生まれる。
それでいい。
率直であろう。
素直であろう。
人として、人と接しよう。
豊かな孤独の中で、手を取り合うために。
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