ブックレビュー「暇と退屈の倫理学」~プロジェクトXと慶應高校
元々本書を手にとったのは今年の3月に亡くなった坂本龍一を追悼し、日経ビジネスオンラインが2013年2月に掲載した坂本龍一と本書の著者である哲学者・國分功一郎の対談を再掲載したのがキッカケだった。
本書のまえがきに面白いエピソードがある。パリに留学中だった著者が一時帰国の際に「プロジェクトX」を見るのだが、その番組の主題歌「地上の星」に違和感をもった。中島みゆきのことはむしろ好きで、ファンだったが、その歌とその歌の使い方が気に入らなかった、という。
そして留学を終えて、帰ってきた年に、その番組の特番で企業を定年退職した六十代の男性たちが必死にその歌をコーラスで歌っていたのを見て、著者は「悲しくなった」という。そして「あの歌が、あの歌のあの使い方が、なぜいやだったのかが分かった気がした」という。
本書は哲学の本ではあるが、著者によると「自分の疑問と向き合おう、自分で考えようという気持ちさえもっていれば、最後まできちんと読み通せる本として書かれている」そうだ。
実際に読んでみると、なかなか手ごわい。著者が言う通り「暇と退屈」の問題への取り組みの記録であるが、「問題は解決したわけではない」。したがって解答を求める姿勢だと読むのは苦痛になる。実際、本書を最初に手をとってから読了するのに2ヶ月かかってしまった。
著者は次のように言う。「人の生は確かに妥協を重ねる他ない。だが、時に人は妥協に抗おうとする。哲学は、その際、重要な拠点となる。問題が何であり、どんな概念が必要なのかを理解することは、人を、「まぁ、いいか」から遠ざけるのである。」
以下、本書のキーとなる考え方をまとめてみた。
暇と退屈の倫理学とは?
富んだ国の人たちは金銭的な余裕、時間的な余裕をもって何をするのか。
「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている」というかもしれない。それでは「好きなこと」とは何か。やりたくてもできなかったこととはいったい何だったのか?
「趣味」という人もいるだろう。ところが「趣味」をカタログ化して選ばせ、そのために必要な道具を提供する企業がある。経済学者のガルブレイスは、高度消費社会においては、供給が需要に先行しており、それどころか供給側が需要を操作しており、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語り掛け、それを買わせるようにしている、と指摘している。
これでは消費者が自由に決定された欲望にもとづいている、とは言えない。すなわち「好きなこと」とは、願いつつもかなわなかったことではなく、そんな願いがあったかどうかも疑わしい。何が楽しいかもわからない。そこに資本主義がつけ込む。労働者の暇が搾取されている。暇が搾取される理由は人が退屈することを嫌うからである。
暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いこそが「暇と退屈の倫理学」である。
大義のために死ぬことをうらやましい?!
アレンカ・ジュパンチッチという哲学者は次のようにいう。近代はさまざまな価値観を相対化してきた。どれも根拠が薄弱で疑い得る。結局「生命ほど尊いものはない」という原理しか提出できなかった。原理は正しいが人を奮い立たせない、人を突き動かさない。このため国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力をもつようになった。
そして人は奮い立たせるものを欲し、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たちを恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。
皮肉屋パスカル「人間の運命はみじめ」
パスカルは17世紀フランスの思想家で、天才数学者であり、宗教思想家でもあった。「考える葦」でも有名だ。
このパスからは退屈と気晴らしについて次のようにいう。
彼はそうした人間の運命を「みじめ=ミザール」と呼んでいる。
さらにおろかなる人間は、自分が追い求めるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、という。例えばウサギ狩りに行こうとする人に、ウサギをあげようとすると嫌な顔をされる。これはウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではないからだ。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいてはみじめな人間の運命から眼をそらしたいから、狩りに行くのである。「欲望の対象」と「欲望の原因」とを取り違えている。
気晴らしなのだから、欲望の対象は何でも良い。ただし熱中できるものでなければならない。人は「欲望の対象」と「欲望の原因」を取り違えているという事実に思い至りたくない。そのために熱中できる騒ぎをもとめる。人間は部屋にじっとしていられず、気晴らしを求め、熱中できるものさえあれば、退屈を避けられる。いとも簡単に自分を騙せる。ここに人間のみじめさの本質がある。
そしてパスカルは、人間のみじめさの本質を知っているからといって、それを誇示する人こそもっともおろか者という。
退屈する人間は苦しみや負荷をもとめる
自分を駆り立ててくれる動機がないこと、それがもっとも苦しい。それから逃れられるのであれば、負荷や苦しみなどものの数ではない。
自分の命さえ投げ出して、喜んで苦しい仕事を引き受ける過激派や狂信者の動機はまさにこれだろう。第一次大戦後、共産主義が説く平和な世界の魅力の無さ。そういった中、若者たちは極度の負荷がかかった状態を生きること、苦しさを耐えて生き延びること、それこそが生だった。それがファシズムを生んだ。
恐ろしいころに、ウサギ狩りに行く人間は、「緊急事態」をもとめる人間とそう変わりは無い。
退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの
人は同じことが繰り返されることに耐えられない。このため今日を昨日と区別してくれるものをもとめる。事件が今日起きれば同じ日々の反復は途絶える。このため事件を求めるが、事件はなかなか起きない。「事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの」が退屈の定義だ。
事件であれば何でも良いから、人間は自分が不幸になることすら求める。「退屈の反対は快楽ではなく、興奮である」。そして幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなく、楽しみ・快楽をもとめることができる人である。
熱意?
ラッセルは幸福をもたらすものは熱意である、という。そして幸福になるための秘訣として次の通りだという。
パスカルは当時ヨーロッパの青年たちは裕福になってやることが残っていないから不幸に陥る、それに比べてロシアや日本は新しい世界を建設するという課題が与えられ、それに熱意を得られるので幸福だ、という。
しかし「新世界の建設」という外から与えられた課題は、「ウサギ狩り」と何が違うのか?いや、違わない。気晴らしでしかない。
ロマン主義的退屈
スヴェンセンは退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義のせいだ、という。ロマン主義は「人生の充実」を求める。しかし、それが何を指しているのかはだれにもわからない。だから退屈してしまう。ロマン主義は、普遍性よりも個性、均質性よりも異質性を重んじる。ロマン主義以前には不平等が社会に覆っていたが、概ね平等が達成されるとこんどは不平等が求めらた。しかしありもしない生の意味や生の充実を探し求めて退屈するのであるからロマン主義を捨てれば良いという。
しかし、ロマン主義的退屈は退屈の一種でしかないのではないか、と著者は指摘する。
退屈の起源
人類は他の動物たちと同様遊動生活を受け継いでいたが、気候変動等の原因によって定住生活を始めた。そして食料生産を開始した。定住はそうじやゴミ処理を人類に求め、またトイレで用を足す必要が生じ、死体を処理し死者と生きている者との棲み分けを求める。コミュニティ内での不和や不満、社会的緊張の解消も必要だし、社会的な不平等も発生する。定住生活を行う人類は苦労してこれらの革命的変化を成し遂げている。
定住者はいつも見る変わらぬ風景によって感覚を刺激する力を次第に失い、優れた探索能力を発揮する場面も失う。行き場を失った人類は、大脳に適度な負荷をもたらす別場面として高度な工芸技術、政治経済システム、宗教体系や芸能などを発展させた。
暇と退屈の違い
暇と退屈は混同されがちだが、暇とは何もすることのない、する必要のない時間を指し、退屈とは何かをしたいのにできないという感情や気分を指す。暇はその人とは無関係に存在するという意味で客観的だが、退屈はその人のあり方とか感じ方に係るので主観的だ。
暇と退屈は次の4類型に分類できる。
①暇がある・退屈している
②暇がある・退屈していない
③暇がない・退屈していない
④暇がない・退屈している
有閑階級とは
経済学者のソースティン・ヴェブレンは「有閑階級の理論」をまとめた。有閑階級とは、相当な財産をもっているためにあくせくと働く必要がなく、暇を人づきあいや遊びに費やしている階級のことを言う。そして彼らは暇であることに高い価値が認められていた。
「ひまじん」というと悪い事のように思えるが、有閑階級は自由にできる時間が多く、経済的に余裕がある特権階級なのだ。やるべき仕事がないことこそが力の象徴である。それを見せびらかすために使用人を使う。
しかし他人の暇を遂行するために人が雇われるような社会は不平等に満ちており、少しずつ解消に向かい、有閑階級は凋落する。その代わりに現れたのが消費である。
ヴエブレンの理論は顕示的閑暇に依存し過ぎているきらいはあるが、「製作者本能」、すなわち「有用性や効率性を高く評価し、不毛性、浪費すなわち無能さを低く評価する感覚」が人間の本能にあるという点は注目に値する。このためヴエブレンは労働を過度に高く持ち上げ、文化や贅沢を過度に貶める。
ヴエブレンは有閑階級でも「品位あるれる閑暇」、すなわち暇を生きる術を知っている伝統的な有閑階級と平民の生まれである有閑階級とを区別する。20世紀の大衆社会はこの暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間を大量に発生させた。伝統的な持たざるを得ないものからの搾取で成り立つので伝統的な有閑階級は美化すべきでは無いが、暇のなかにいる人間が必ずしも退屈するわけではないことを教えてくれる。
労働賛美批判
余暇の権利を得た労働者階級は、次に労働観の転換が必要となった。社会主義者のポール・ラファルグは、労働者の権利を要求する運動は、労働者そのものの賛美を内に抱え込み、労働を高い位置に置くが、労働賛美は資本家の思う壺ではないか、という考え、「怠ける権利」を主張した。
ラファルグは資本主義を嫌っていたため、労働者が資本の論理に取り込まれることを嫌い、余暇を求めることこそが資本の論理の外に出ることだ、と信じたが、実は余暇は資本の外部では無かった。資本家にとって、労働者に無理を強いることは不都合であり、適度に余暇を与え、最高の状態で働かせることこそ最も都合が良い。その代表が自動車王ヘンリーフォードの生産方式である。
管理されない余暇
「品位あるれる閑暇」の伝統をもたない大衆は、余暇で何をしてよいのかわからない。そこで生まれたのがレジャー産業だ。レジャー産業は人々の欲望そのものを作り出す。
ガルブレイスは現代社会の生産課程は、「生産によって充足されるべき欲望をつくり出す」という。今やこれは常識と言えるが、ガルブレイスは「消費者主権モデル」崩壊の「希望」として、「新しい階級」、仕事こそが生きがいだと感じている人が増えており、一層拡大することが社会の主要な目的の一つである、と主張した。
しかしここには大きな疑問が残る。「仕事が充実するべきだ」という主張は「仕事においてこそ人は充実していなければならない」という強迫観点を生む。「新しい階級」に落ちこぼれまいとする過酷な競争を強いる。そして「新しい階級」以外の仕事に対する差別意識を生む。
不断のモデルチェンジが強いる労働形態
先のフォード式生産方式(フォーディズム)は崩壊する。いかに高品質の製品であろうと同じ型である限り売れない。このため不断のモデルチェンジを強いる。
少量多品種生産は巨大な設備投資による生産が難しく、人間にやらせることになる。ポスト・フォーディズムは派遣労働や契約社員といった非正規雇用の拡大を生んだ。労働者の保護を叫ぶ主張は正しいが、非正規雇用は特権階級を弾劾することで解決するのだろうか。むしろ絶えざるモデルチェンジを維持することを求める消費スタイルに問題があるのではないのか。そしてモデルチェンジの本質は退屈しのぎ、気晴らしである。
贅沢・浪費・消費
贅沢は過度の支出が無駄だと考えられ、不必要だと非難されるが、必要なものが必要な分しかないとリスクが極めて大きい。これでは豊かさを感じることができない。浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収すること。したがって浪費は贅沢の条件である。そして浪費は満足をもたらす。
それに対して消費とは何か。浪費は物の受け取りには限界があるためどこかでストップするが、消費は止まらない。消費は決して満足をもたらさない。その理由は消費の対象が物では無く、物に付与された観念や意味だからだ。消費されるためには物は記号にならなければならない。
グルメブームで有名人が利用した店に人が殺到するが、それは「あの店に行ったよ」と言うためで、そういう人は紹介される店を延々と追い続ける。これこそが消費である。モデルチェンジは「チェンジした」という観念だけを消費している。
今日広告は消費者の「個性」を煽り、消費者は「個性的」でなければならないという強迫観念を抱く。しかしその「個性」は決して完成しない、すなわち満足しない。その意味で消費は常に「失敗」するように仕向けられている。こうして選択の自由が消費者に強制される。
消費社会は物が過剰な社会であると言われるが、現代の消費社会を特徴づけるのは物の過剰ではなく稀少性である。物があり過ぎるのではなくて、物がなさすぎる。その理由は生産者の事情で物が供給されており、生産者が売りたいと思うものしか市場に出回らない。
消費社会ではそのわずかな物を記号に仕立て上げ、浪費では無く消費に駆り立てる。消費者社会とは人々が満足しないように浪費するのを妨げる社会である。
消費社会に対して、「清貧の思想」のように質素倹約の提唱があったが、消費は贅沢などもたらさない。消費社会を批判するスローガンはむしろ「贅沢をさせろ」になる。
ガルブレイスが「新しい階級」、仕事に生き甲斐を見出す階級の誕生を歓迎したが、それは消費の論理を労働に持ち込んでいるに過ぎない。「生き甲斐」という観念を消費するために労働するに過ぎない。さらには労働外の時間、すなわち余暇も消費の対象となり、非生産的活動を消費する時間である。「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない。
現代の疎外
消費社会における疎外とは、労働者の疎外の様に、だれかがだれかによって虐げられているのではなく、自分で自分のことを疎外している。それは終わりなき消費のゲーム、自分で自分たちを追い詰めるサイクルを必死で回し続けているのが消費者自身だからだ。「暇なき退屈」である。先の暇と退屈の類型④にあたる。
疎外された状態を「何か違う」と疑うのは良いとして、「本来の姿」に戻るべきという考え方は、その本来性が人から自由を奪うし、本来性から外れる人を排除するので危険だ。
ルソーとマルクスは本来性を想定することなく、疎外からの脱却を目指し、新しい何かを創造しようとした。
ハイデッガーの二つの退屈
ハイデッガーは退屈を第一形式=何かによって退屈させられること、と第二形式=何かに際して退屈すること、の二つに分けて考える。
第一形式は、時間がのろい、ぐづついていることに困らされている。ぐづついている時間はこちらには積極的には関わってこない。私たちを「引きとめ」ている。そして引きとめられると物が言うことを聞いてくれないので「空虚放置」される。
このとき私たちはある物がもつ時間にうまく適合せず、ギャップが生じている。例えば会議で退屈するのは、自分が結論が出ていると思っているのに、議論がなかなかそこに到達しない。この結果会議室に「引きとめ」られ、「空虚放置」される。
第二形式では、特定の何かに退屈させられているのではない。例えばパーティに招待され、大変楽しかったけれども退屈を感じる。第一形式のように「空虚放置」を避けるために気晴らしも必要では無かった。
実はそこでの立ち居振る舞いの全体、ひいてはパーティ全体、招待そのものが気晴らしである。パーティが退屈であると共に、パーティそのものが気晴らしである。主体の置かれている状況、主体の際している状況そのものがそもそも暇つぶしである。
特定の退屈は存在しないが、主体は退屈している。そこでは私自身のなかに空虚が成育している。第一形式の空虚とは異なる「空虚放置」である。「引きとめ」はどうか。第一形式では時間のぐづつきがあったので引きとめられた。第二形式では時間の流れは私たちを拘束していないが、「お前は私に根源的にくくりつけられているのだ」と無言で呼びかけてくる。
先の暇と退屈の4類型で言うと、「①暇がある・退屈している」が第一形式であり、「④暇がない・退屈している」が第二形式である。
私たちの普段もっともよく経験するのはこの④=第二形式である。生活には気晴らしが満ちており、その気晴らしを退屈だと感じるわけではないが、その気晴らしは退屈と絡み合う。
ハイデッガーは第二形式には「安定」がある、という。むしろ第一形式は時間を失いたくないという強迫概念に取りつかれた「狂気」に他ならない。仕事熱心でとても真面目に見えるが、「俗物性」への転落ですらある、という。
退屈の第三形式
ハイデッガーはさらに「なんんとなく退屈だ」を提示する。ここでは気晴らしは意味をなさない。退屈に耳を傾けることを強制されている。何もない「余すことのなき全くの広域」=ゼロに置かれる。
ここでは何も外から与えられる可能性が無い。このため人は自分に目を向ける。自分が持っている可能性に気がつく。事態を切り開いていくための可能性に「引きとめ」られ、最高度に深い退屈がもたらした絶対的な「空虚放置」を打ち壊し、状況を切り開く可能性に目を向ける。
第一形式から第三形式への向かうにつれ退屈はより深くなる。第一形式は日常の仕事の奴隷になっている。これは「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃れるためだ。第二形式は、「なんとなく退屈だ」という声を聞きたくないから退屈と混じり合った気晴らし(パーティ)が行われる。深い退屈を払いのけるために考案されている。どちらも「なんとなく退屈」に耳を塞ぐことを目指している。
それでは第三形式の自分の可能性とは何なのか。ハイデッガーは「自由だ」という。そしてその実現は「決断することによって」得られる。「グダグダしていないで、心を決めて、しゃきっとしなさい」ということ。
遊動生活によって存分に発揮されていた優れた人間の能力は、定住とともに新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなった。余った能力は文明の高度の発展をもたらしたが、退屈の可能性を与えた。退屈は人間の能力が高度に発達したしるしであり、決して振り払うことはできない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう。
人間だけが退屈する
私たち人間は「世界」なるものをイメージするが、他のいかなる生物もそのような「世界」を生きていない。ユクスキュルはこれを「環境」と呼ぶ。それぞれの生物が生きている世界「環世界」とは異なる虚構の世界である。
人間は時間についても他の生物と異なっている。人間にとって瞬間とは十八分の一(約0.056秒)であって、これ以内で起こることは感覚できない。すなわち感覚の限界である。カタツムリは三分の一秒より短い時間を認識できない。すなわち環世界と同じように時間についても各生物によって異なる。
ハイデッガーは人間には環世界を適用するのは間違っているという。動物は「衝動の停止」と「衝動の解除」とを繰り返して行動し、それ以外の仕方では行動できない。すなわち「とらわれ」ている。それに対して人間は「とらわれ」ていない。動物は「世界貧乏的」であるが、人間は「世界形成的」、すなわち世界そのもの関り、世界そのものを作って行くことができる、という。
ハイデッガーは人間だけが退屈する、なぜなら人間は自由であるから(とらわれていないから)。動物は退屈しない。なぜならとらわれているから。そう主張したかった。
しかし著者は人間にも環世界はあるし、とらわれることもあるが、一つの環世界から別の環世界へ容易に移行することができる、という。このため一つの環世界にひたっていることができないので、人間は極度に退屈に悩まされる。そして他の動物も一つの環世界にひたっていることはできず、退屈することがあり得る。
第一形式と第三形式の関係と第二形式の特殊性
さきのハイデッガーの第一形式は「なんとなく退屈だ」を聞かなくて良いので日常の仕事の奴隷になった。一方、第三形式では退屈を経て決断する。著者はこの第一形式の人間は第三形式とそっくりだ、と指摘する。決断する人間にも甚大な自己喪失があるというわけだ。
第三形式が第一形式と同じということになると、第二形式こそ退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものだ、という。人間は普段この第二形式を生きており、「現存在のより大きな均整と安定」がある。
歴史の終わり、人間の終わり
アレキサンドル・コジュ―ヴは「歴史の終わり」として何等かの目的に向かって突き進むプロセスである人間の歴史が、その目的を達成されてしまった状態のこと、だという。いつまでも人類が前進しつづけるわけがない、という訳だ。
そして「歴史が終わる」ということは「人間が終わる」ことを意味する、という。ひたすら前進しつづけた人間(「本来の人間」)だが、歴史が終わり目的が実現されたのなら、人間は自己を根本的に変化させる必要はなくなる。革命・戦争・哲学も必要なくなる。それ以外の「芸術や愛や遊び等々…要するに人間を幸福にするものはすべて保持される」。そして歴史以降、人間はアメリカ人になる、すなわち動物になる、という。
ところがコジュ―ヴは1959年の日本への訪問で前言を撤回する。日本人を見た彼は日本人こそ歴史以後の人間の姿であり、すこしも動物的ではなかった、という。その特徴はスノビズム=実質ではなく形式を重んじる傾向=「カッコつける」である。能楽、茶道、華道、ハラキリ、特攻。どんな動物もスノッブではあり得ない、だからスノッブである日本人は人間である、と結論づけている。そして人間はみな日本人になって行き延びる、という。
著者はこのコジュ―ヴの結論を滑稽であり、「本来の人間」は第三形式=第一形式に逃げ込んだ人間を勝手に理想化しただけ、だと指摘する。「本来の人間」は大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者の姿に重なる。「アメリカ人」の動物性も「日本人」のスノビズムも第二形式の退屈の現れ、気晴らしでしかない、という。
習慣のダイナミズム
習慣が、毎日の繰り返し、ある種の退屈さを想い起すかもしれないが、人間の環世界が習慣に強い影響を受けるものであり、環世界は途方もない努力によって獲得されねばならないとしたら、習慣とは困難な過程を経て創造され、獲得されるもの、すなわちダイナミックなものだとみなされる。
ひとたび習慣を獲得してもいつまでもそこに安住はできない。環世界が変わればたえまなく習慣を更新しながら、つかの間の平穏を得る。
習慣を創造するとは、周囲の環境を一定のシグナルの体系、記号に変換することである。新しいものにであることは大変なエネルギーを必要とするため、すべてのものに反応しないで済むように記号化する。習慣が獲得されれば、考えて対応するという複雑な過程から解放される。(記号化はよく無意識バイアスが誰にもある理由として語られる。)
「考えることが重要だ」というが、実は人間はものを考えないですむ生活を目指して生きている、ともいえる。人間は仕方がなく、強制されてはじめて考える。何かショックを受けて考える。ドゥルーズはそのショックの事を「不法侵入」と呼ぶ。
快原理
フロイトは人間の精神生活はあらゆる面において快を求める快原理によって支配されていると言う。精神は快を求め不快を避ける。この快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増加だ。性の快楽は、高まった興奮を最大限度まで高めることで一気にさめ、心身は安定した状態を取り戻す。
人間は習慣をつくり出すことを強いられる。そうでなければ生きていけない。その中では必ず退屈する。だから退屈をごまかせるような気晴らしを行う。
人間であるとは第二形式の退屈を生きること。そしてたまに第三形式=第一形式に逃げてまた戻ってくる。人間であることは退屈に向き合って生きることを意味するからつらい。
しかし人間にはこのつらい人間らしさから逃れる可能性、希望も残されている。それは環世界に「不法侵入」してきた何等かの対象がその人間をつかみ放さないときである。その対象にとりさらわれ、思考することしかできない、すなわち動物になることである。
第二形式は投げやりな態度もあるが、自分に向き合う態度もある。考えることの契機となる何かを受け取る余裕がある。これに対して第三形式=第一形式は受け取る可能性のある対象すら受け取れない。奴隷になってしまっている。
「不法侵入」を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この創造は他の人びとにも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばある。
結論
本書は最終章として結論を記している。どうしても退屈してしまう人間の生とどう向き合って生きていくのかについての結論は三つ。
第一に「こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない」というものだ。本書を読んだことが実践であり、その実践のただなかにある。
第二は「贅沢を取り戻すこと」である。現代社会では妨げられている浪費、必要の限界を超えて物を受け取れるようになる。その物を楽しむことである。例えば衣食住を楽しむこと、芸術や芸能や娯楽を楽しむことである。
楽しむことは決して容易ではない。準備と訓練が必要だ。ラッセルは「てんで教養のない人たちには縁のない繊細な楽しみである」と述べている。
第二形式を生きる人間にとっては、気晴らしを存分に享受すること、人間であることを楽しむことである。消費社会とは退屈の第二形式の構造を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を劇化させる社会だ。気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造をつくり出したのだ。
第三は、「動物になる」すなわち思考を強制するものを待ち構えることである。人は奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け取れない。退屈を時折感じつつも、物を享受する生活のなかでは、思考を強制するものを受け取る余裕をもつ。楽しむことは思考することにつながる。しかも楽しむためには訓練が必要で、その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになる。
世界には思考を強いる物や出来事であふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。
そして著者は最後に、こう述べる。
プロジェクトXと慶應高校
さて冒頭に書いたエピソードの通り、著者は「プロジェクトX」の特番で企業を定年退職した六十代の男性たちが必死にあの歌をコーラスで歌っていたのを見て、「悲しくなった」、そして「あの歌が、あの歌のあの使い方が、なぜいやだったのかが分かった気がした」と言っているが、その理由について明確な解説を本書では示していない。
正解かどうかわからないが、私は決して満足することの無い「生き甲斐」という観念を消費するために労働に没頭し、退屈の第三形式=第一形式、すなわち思考を強制するものを受け取る余裕がないような人間の生、心地よい奴隷状態を賞賛するような使い方だったからではないか、と思っている。
プロジェクトXの歌をコーラスで歌う定年退職者達の姿は、最近話題となっている甲子園での夏の高校野球で慶應高校を応援する人達の姿に重なって見える。
東京工業大学教授・柳瀬博一氏は次のように指摘する。
一部OB・OGからは「エリートに求める節度=ノブレスオブリージュ」が無いとの批判の声もある応援でもあったが、当のOB・OG達、さらに“慶応高校出身ではない慶応大学OB”にとっては、あの応援はまさに心地よい奴隷状態だったのだろう。
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