見出し画像

【インタビュー】「そんなに早く自分に見切りをつけなくていい」メキシコ国立オケのオーボエ奏者・練木聖子さんが日本を出て学んだこと

メキシコの国立オーケストラでオーボエ奏者として活躍する日本人女性がいる。練木聖子(ねりき・きよこ)さんだ。いまから23年前、1998年にメキシコに渡った練木さんは、エルサルバドル人の夫と結婚し、子育てをしながらメキシコで音楽活動を続けてきた。

国際結婚と海外での仕事。日常生活そのものがカルチャーショックの連続だったという彼女に、「日本を出て学んだこと」を聞いた。

【練木聖子さんプロフィール】 1969年千葉県柏市生まれ。5歳でピアノを、12歳でオーボエをはじめる。武蔵野音楽大学卒業後、埼玉県の中学校で1年間の臨時教員を務めたのち、25歳で青年海外協力隊員としてエルサルバドルへ。任期終了後、メキシコシティへ移住し結婚。国立ベジャス・アルテスオーケストラ(Orquesta del Teatro de Bellas Artes)のオーボエ奏者。プライベートではエルサルバドル人の夫、大学生の娘との3人家族。

オーケストラでの仕事

ーーまずはお仕事について詳しく教えていただけますか。

メキシコシティにはプロのオーケストラが5つあります。わたしが所属するオーケストラは、首都メキシコシティにあるベジャス・アルテス宮殿というオペラハウスを拠点に活動していて、オペラやバレエの舞台での演奏がメインの仕事です。

現在コロナで公演数は減っていますが、通常はオペラなら1つのプログラムについて3週間練習して5公演、バレエなら2週間練習して5公演、というようなサイクルで練習と公演を繰り返します。12月はクリスマスや年末の特別公演があるので、特に忙しいですね。公演や練習以外にも、オーケストラ内の会議に参加したり、新団員のオーディション審査なども仕事に含まれます。コロナ前はメキシコ国内の地方都市へ演奏ツアーにも行っていました。

ーーオーケストラで日本人の団員は練木さんおひとりですよね。海外の職場ならではの驚きはありましたか。

日本で働いた経験もあまりないので比較することはできませんが、驚いたのは自己主張の強さです。特に感じたのは、東欧諸国出身の人達に対してですね。

メキシコではニ国籍を取得することができるので、わたしが働きはじめた2000年頃はすでに、ソ連崩壊後の東欧諸国からの移民がオケの中にはたくさんいました。彼らは、稚拙なスペイン語でも物怖じせず、自分の意見をはっきりと主張します。たとえば、団員のオーディションのやり方やプログラムの内容についてオケの団員で話し合いますが、わたしは全然発言できませんでした。意見が飛び交うなかに、幼稚な自分のスペイン語で入り込んでいく勇気がありませんでした。

ーー語彙や言い回しが幼稚になってしまい発言を躊躇してしまう気持ち、よく分かります。それでもどんどん発言する東欧諸国の人達は強いですね。

最初の頃は「わたしって意見の言えないバカな子なんだ」と落ち込んだり、「周りの団員もわたしのことをそういう目でみているんだろうな」と思ったりしました。でもしばらくして、わたしの本業は喋ることではなく演奏することだ、と考えるようにしたら、気持ちがすこし楽になりましたね。それでもこの経験はその後も自分のなかに強烈に残って、語学を学ぶモチベーションになりました。

画像1

オーケストラの仲間と。団員間での議論は時に国際政治までもを引き合いに出して白熱することもあった。(写真提供:練木聖子)

オーボエをはじめたきっかけは「勉強嫌い」

ーーオーボエをはじめたのはきっかけはなんだったんでしょうか。

中学生のときに吹奏楽部に入ったのがきっかけです。小さい頃から勉強が嫌いで、代わりにピアノは好きでした。中学校の吹奏楽部ではじめてオーボエを吹いて、楽しいなあと思っていたら、「オーボエなら倍率が低いから音大にも行けるよ」と周りに言われて。「勉強せずに楽して大学に行きたい」という不純な動機で音大に行ったんです(笑)。

ーーなるほど。「楽して行きたい」というのが親近感の湧く話ですね。実際の大学生活はいかがでしたか。

大学に行ってすぐに気づいたのは、自分は日本ではプロの音楽家にはなれない、ということでした。ソリストでも、オーケストラ団員でも、日本では本当に一握りの人しかプロになれません。「よし、音楽の勉強をしよう」と入った音大で、逆にその事実を突きつけられるのだから、いきなり頭をはたかれたような感じです。周りのほとんどの学生たちもそうでしたが、わたし自身もしばらく将来がどうでもよくなってしまいました。

画像2

バブル真っ只中で過ごした大学時代(写真提供:練木聖子)

抱き続けた「海外への憧れ」を胸に、25歳でエルサルバドルへ

ーーそれから25歳で中米のエルサルバドルに行かれたんですよね。どのような経緯だったんでしょうか。

大学卒業後は、埼玉の中学校で1年間臨時の音楽教員をしていました。でも、もともと洋画が好きで、海外で暮らすことへの憧れをずっと持ち続けていました。まだ若かったダイアン・レインやリチャード・ギアを映画雑誌で見ては「アメリカに行ってみたい」と思ったり、『ベスト・キッド』という映画を観て「結婚するなら絶対ラテン人が良い」と思っていました。

それで、教員としての1年の雇用期間が終わったあと、「JICAの青年海外協力隊(JOCA)がエルサルバドルに派遣するオーボエ奏者を募集している」という話を知り、応募を決めたんです。

ーーそうだったんですね。エルサルバドルというと、日本人で訪れたことのある人はかなり少ないと思うのですが、当時はどのような様子だったんでしょう。

まだ内戦(1980-1992年)が終わったばかりで、とても治安が悪かったです。戦争が終わってやることのなくなったゲリラ部隊の人達が、街で様々な犯罪をしていました。マラスというアメリカ大陸で有名なギャンググループがいるんですが、それはもともとはエルサルバドルの内戦で闘っていたゲリラ部隊の一部なんです。

ーーそんな環境のなか、練木さんは隊員としてどのようなお仕事をされていたんですか。

エルサルバドルの政府が日本のJICAに対して、「エルサルバドルのオーケストラと専門学校でオーボエを指導できる人を派遣して欲しい」と要請して、JICAが日本で募集をかけます。わたしはその枠に応募して派遣されることになったので、主な仕事はオーケストラ団員と子ども達に対するオーボエの指導でした。エルサルバドルの将来を考えれば、わたしが演奏することよりも若い音楽家を育てる方が価値がある、と思いながらやっていましたね。

ーーエルサルバドルでオーボエを教えるなかで、どのようなことを感じましたか。

何よりもまず感じたのは「お金がないと音楽を続けるのも難しい」ということです。木管楽器はリードと呼ばれる吹き口をつけて演奏します。リードは消耗品で、長時間のコンサートであれば1日でもう取り替えなければなりません。当時のエルサルバドルにはリードは売っていなかったので、子どもたちには、日本から持ってきた葦(あし)を削ってリードの作り方から教えました。でも、わたしが帰国したあとも彼らがオーボエを続けるためには、彼らの親にリード用の葦を買うような金銭的余裕がないといけません。

もうひとつ感じたのは、子どもたちの素直さです。両親や祖父母の世代と子どもたちがお互いをとても大切に想い合っていて、その文化が子どもたちを素直にしているんじゃないかな、と思いました。

画像6

練木さんら青年海外協力隊の活動を伝える当時のエルサルバドルの新聞記事(写真提供:練木聖子)

ーーご主人(ラファエルさん、エルサルバドル出身)と知り合われたのもこの派遣期間中でしょうか。

はい。わたしが派遣されたオーケストラで、トランペットを吹いていたのが夫です。知り合ったときはわたしが25歳、夫は20歳でまだ学生でした。青年海外協力隊の派遣期間は2年でしたが、それが間もなく終わるという頃に夫と付き合いはじめたので、1年の延長申請をして、エルサルバドルには合計3年いました。

メキシコシティのボロアパートではじめた結婚生活

ーーそれからメキシコシティに移住したのはなぜですか?

実はエルサルバドルには音大がなく、大学で専門の教授に音楽を教えてもらうためには、別の国に行かなくてはなりませんでした。夫はトランペットの専門的な勉強をしたかったので、中南米の中でも比較的都会で大学の学費が無料だったメキシコシティに行くことにしたんです。

わたしも彼との結婚を前提にメキシコに行こうと決め、エルサルバドルから一度日本に帰国し、両親に彼のことを話しました。父は当初「ラテン人との結婚なんて浮気されるに違いない」と大反対でしたが、母が賛成してくれて、父を説得してくれたんです。

ーーエルサルバドルのときのように決まった期間行くのではなく、今度は結婚ですもんね。お父様も相当心配されたんでしょう。メキシコではじまった結婚生活はいかがでしたか。

ものすごく貧乏でとにかくお金がなかったです。エルサルバドルからメキシコシティまでは飛行機で2時間くらいで行けるんですが、夫はそのチケットが買えなくて、コンドルという長距離バスで行ったんです。もちろん1日では着きません。途中何ヵ所も検問があって、お金や所持品を取られたり、1人だけ置いて行かれそうになったりして、本当に「命懸けの旅行」だったそうです。わたしもスーツケース2つだけを持って日本からメキシコシティに行って、2人でボロアパートで暮らしはじめました。でも、好きな人と一緒に暮らすのは貧しくても楽しかったですね。

画像6

メキシコシティ移住当初に借りていたアパートにて(写真提供:練木聖子)

ーーそれからどうやって現在のお仕事に辿り着いたのでしょうか。

まずは夫の音大の先生に、オーボエ奏者である奥様を紹介してもらいました。そうしたら彼女がメキシコのベラクルス州のハラパという地方にあるオーケストラを紹介してくれたんです。オーディションを受け、入団をさせてもらうことができました。それから平日はハラパで単身赴任、週末はメキシコシティに戻って夫と過ごす生活を送りました。それから1年後、メキシコシティのオーケストラのオーディションを受けて合格することができ、現在に至ります。

夫婦だって価値観が違ってもいい

ーーエルサルバドル人のご主人とは、結婚生活のなかで価値観の違いなどからぶつかることもあったんでしょうか。

夫はエルサルバドルの内戦時代に生まれた人で、幼い頃は家が本当に貧しかったそうです。粉ミルクが買えなくて、砂糖水を飲まされて育ったり。小学生の頃は、学校から帰ると父親の自動車修理業を手伝うか、コーヒー農園で豆を運んで僅かなお金を稼ぐのが日課だったそうです。

だから、日本で育ったわたしとは価値観、特にお金に関する価値観が全く違います。一番辛かったのは子どもが生まれてから。教育費に関する意見が全く一致しなかったことですね。たとえば、「勉強は自分でやれるものだから塾代や家庭教師代は必要ない」とか、そのほかの習い事にかかる費用にも夫は否定的でした。

ーー離婚しよう、とは思いませんでしたか?

もちろん思ったこともあります。でも、あるときから、「価値観って話し合って変わるものではないな」と思うようになったんです。どんな風に育ってきたか、というのは自分の価値観に大きく関わります。全く異なる環境で全く異なる育ち方をしてきた人に、自分の価値観を押し付けることも出来ませんし、反対に自分の価値観を合わせることも出来ません。

だからといって、「価値観を全部同じにできないから、夫婦をやめないといけない」とも思いませんでした。それは、金銭的な価値観以外の部分で彼に尊敬できる部分があったからです。たとえば家族が風邪を引いたときの看病の仕方。落ち込んだときの励まし方。そんな日常の行動に人としての優しさが溢れていました。もうひとつは、わたしが経済的に自立していたからです。子どもにどうしても必要だと思った教育費は、自分のお給料から出せばいい。そう決めたら気持ちがすっきりしたんです。

画像5

夫・ラファエルさんと娘さんと現在の自宅にて(写真提供:練木聖子)

50代は「もし〇〇していたら・・・」をなくすための時間

ーー練木さんは、これから50代をどんな風に過ごしたいですか?

メキシコには、"Hubiera no existe."という有名なフレーズがあります。Hubieraというのは「もし〇〇だったら…」という過去の仮定条件を表すときに使う表現。"no existe"というのは「存在しない」という意味で、このフレーズは『「もし〇〇だったら…」というのは、実際には起きていないのだから、存在しないのと同じだ。やりたいことは、やりたいと思った時にやらないといけない』というメッセージを伝えています。

わたしはこのフレーズがとても好きです。何歳だからこれをするのはおかしい、といった考え方はメキシコであまり重要ではありません。何歳でも、やりたいときにやりたいことを始められるし、何歳まで挑戦したっていい。そんな雰囲気がメキシコの社会の良いところだと感じます。

このフレーズに出会ってから、50代は自分の"Hubiera"をなくすための時間だと思うようになりました。やりたいことをリストにして、どんどんやっていきたい。メキシコでギタリスト兼作曲家をしている日本人の友人と先日アルバムデビューも果たしました。スペイン語の資格も取りたいですし、忙しいですね。

画像5

50歳を迎えてから、オーボエとギターのデュオ・アルバムを制作、iTunesにて発売した(写真提供:練木聖子)

日本の若い人たちは、そんなに早く自分に見切りをつけなくていい

ーーもし日本の若い人たちに、ご自身の経験から何かを伝えるとしたら、どんなことでしょう。

かつて音大にいた頃のわたしは、日本でプロになれないならもう音楽の道はないな、と思っていました。周りの多くの学生もそうでした。でも、エルサルバドルを経てメキシコに来て、職場でも様々な国の人と一緒に過ごしていま思うのは、「日本の若い人はそんなに早く自分に見切りをつけなくてもいいんじゃないかな」ということです。

世界は広いですし、やりたいことを続けながら食べていく方法はいくらでもあります。たとえばメキシコでは音大卒業後も働きながら音楽を続けて、30歳を過ぎてからヨーロッパで音楽の勉強をするために留学、なんて人はしょっちゅういます。20代そこそこで、「日本ではプロになれない」という理由だけで好きなことをやめてしまうのは、もったいない気がするんです。

30歳なんて、ここではまだ”ベベ”(「赤ちゃん」)です。40歳、50歳だって、よちよち歩きをはじめたぐらい。いくらでもチャレンジしていいし、失敗していい。無限の可能性を持った存在なんですよ!というエールをここメキシコから送りたいですね。

画像6

ベジャス・アルテス宮殿のステージにて(写真提供:練木聖子)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?