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年に一度、小さな音楽教室が掛けてくれる『ご褒美』の魔法。

実家のすぐそばにある、小さな音楽教室。わたしはそこで15年間バイオリンを習っていた。時々練習が嫌になってさぼったり、部活で骨折してお休みしたりしながらも、ずっと辞めずに通い続けた。その教室では、一年に一度、頑張った生徒たちに特別な『ご褒美』をくれる。それはまるで魔法のように、わたしをどこまでも広い音楽の世界へ連れていき、また来年も弾き続けたい、と思わせてくれた。

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6月最後の日曜日。発表会は一年で一番緊張する日だ。

舞台袖で自分の順番を待つ間は、いつもお昼に食べたパンが出てきてしまいそうな気分になった。暗がりの中で冷たい指先を温めながら楽譜を開くけれど、ほとんど頭に入って来ない。前の子が演奏を終えて袖へ戻って来るのが見え、椅子から立ち上がる。係の女性が目配せしてから名前と曲目をマイクに向かって読み上げると、いよいよだ。

舞台に一歩踏み出すと、白い絹のブラウスや黒い革靴、金色の管楽器がきらきらと眩しく光って見える。自分の頬の熱さをひしひしと感じながら、中央まで進み、客席にひとつお辞儀。指揮者と視線を合わせ、頷くと、白い棒が音もなく空を切る。背後から全身を包み込むように響いてくる重厚な音に、ごくりと唾を飲む。指揮者がいざなうようにもう一度視線を寄こしたら、さあ出番だ。

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プロを目指しているわけでもない普通の子供が、オーケストラを前にソリストとして演奏する。

それは「野球少年がプロ野球選手と一緒にキャッチボールする」というのと同じくらい、夢みたいな話だ。

このオーケストラの正体は、先生の音大時代の仲間たちだ。普段はそれぞれプロの演奏家として活躍している人たちが、この日限りの『OBオーケストラ』を結成し、子供たちの演奏の伴奏をしてくれる。

はじめてオーケストラの前に立ってコンチェルトを弾いたとき、「これは一年頑張って練習した生徒さんたちへのご褒美なのよ」と、先生が言った。

「最初はみんな緊張でガチガチ。でもオーケストラの前に立って、なんとかあの迫力に負けないように、ソリストに見えるように、って弾くうちに、堂々とした格好良い音が出てくる。練習しなさい、ってわたしが100回言うよりも、これを1回経験する方がよっぽど目の色変えて練習するようになるのよね。それに、小さい子たちは夢が出来る。自分もオーケストラの伴奏で弾くような難しい曲を弾けるようになりたい、ってね。」


曲を弾けるようになるまでの練習は、本当に地味だ。ねちねちした性格の人が作ったとしか思えないような、細かな音階や複雑な和音の教則本を、ひたすら丁寧に正確に、そして指が形を覚えるまで何度も繰り返す。基礎練習ではなく『クソ練習』と呼んだ記憶さえある。

それでも、先生の言葉通り、わたしたち生徒は毎年あの『ご褒美』にすっかりやられてしまう。「この発表会を最後に辞める。」と言っていた子が、帰り道には「来年は絶対にあの子が弾いていたあの曲を、もっと格好良く弾くんだ。」と興奮した顔つきで母親に話す姿をよく見かけて、みんな同じだなと少しおかしくなった。

今はまだ幼い娘も、いつの日か一度でいいから、あの魔法にかかってみてほしい。飛び出てきそうな心臓を必死で飲み込みながら、優しいオーケストラと一緒に奏でる音楽は、きっとどこまでも広くて、素晴らしい世界に連れていってくれるだろう。

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