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プレシャスな体験

1998年8月のメールマガジンを見つけた。この当時、大阪・淀屋橋にミズノがあった。いまは、ない。「買い物」体験が、この当時はすごく楽しいものだったことがわかる。プレシャスな体験。ぼくはまだ会社員でした。

2021年現在の買い物体験は、自販機みたいになってしまった。このボタン押したら水、こっちのボタンならお茶・・・レジ決済も袋詰めも客が自分でやる。こんな味気ない社会にしてしまったのはぼくも含め、大人たちの責任だ。

では、お楽しみください。これぞ、買い物の喜び、という体験を。

「人生たった一度きりの体験」と文中書いていますが、本当にその通りになりました。もう息子は大人になり、ミズノのお店もなくなり。
本当に、プレシャスな体験です。

       Aloha from

    電脳市場本舗
~Marketing  Surfin'98~

wave-3. paid for what?

 野球グラブ(glove)を買う、ということをひとはそうしばしば体験するものではない。

 ましてや息子にねだられて買うとなるとなおさらである。世の中の父親、一生に一度あるか、ないかであろう。なぜなら、二度めは息子が自分で、あるいは友人たちと買いに行くからである。ぼくには父親がいなかったので、これまでそういう体験がない。

 小5の息子が学校のソフト部に入った。夏休み明け早々に試合がある。家には二つグラブがあるが一つは2年前ホノルルで買ったおもちゃ、もう一つは今年ソウルで買ったものである。何にしても体の成長が早い年頃、新しいものが欲しい、と言い出した。今年の夏は特に仕事が忙しく、寝ている時間以外はすべて仕事をしているという有様で、ろくに息子と遊んでいない。これは何も大袈裟な表現をしているのではなく、ぼくの場合は、めしを食っていても、風呂に入っていても、道を歩いていても、トイレに座っていても、ものごとを考えているから、「寝ている時間以外仕事」というのは、正しいのである。

 罪ほろぼしのために淀屋橋にあるミズノに息子と自転車を飛ばした。

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 店内を見て驚いたのだが、一口に野球グラブと言っても様々で、少年用だけでも硬式用、軟式用、ソフト用、オールランド用、そしてそれぞれが年齢別に分かれている。正直、この中から選ぶのか、とうんざりしていた。こうなると実際に使う息子の直感やフィーリングで選ぶしかない。

ただ、店頭に並んでいるグラブはどれも立派で、皮がきちんとしていて、韓国でバットとセットで買ったものとはとうてい比べ物にならないくらい立派であった。ただ、その分、新品の間は皮が固いイメージがある。

一つ選び、軟式ボールとソフトボールも買っておくことにした。ところがソフトボールの大きさと素材がわからない。迷っていたら「小学生のソフトなら、こちらのサイズです」と、声をかけられた。見ると、店内スタッフが立っている。彼は、次に息子が持っていたグラブを見て、「これからうまくなりたい、というのであれば、そのサイズがいいでしょう。できるだけ小さ目のグラブがいいのです」ぼくたちがグラブの大きさについて話しているのが聞こえていたのか、と思うくらいの的を射た指摘だった。

「もしこれから5分ほどお時間を戴けるのであれば、鉄でこのグラブの真ん中を打ちます。ボールが入りやすくするために、『くぼみ』を、作るのです。そして、皮全体を柔らかくしておきます」もちろん、ぼくたちにNOはない。

 そのスタッフは加藤さんといった。彼は、野球が好きで好きでたまらない、という顔をして、グラブの説明をしてくれた。彼によると、グラブの要諦は親指と小指で、その間にある指たちは「柳」なのだそうだ。だから、ボールを受けとめるのはその親指・小指、その間の指はグラブに任せ、前に出て、取りに行かない。
ボールをはじくことになるから。できるだけボールを体にひきよせ、そして「柳」で、ふわ、と受ける。

「そのために皮を柔らかくしておきました。だから、ほら、小指のところは、内側に指一本で簡単に『しなう』ことができます」彼はそのあと、グラブの専用保管袋と、手入れのためのオイルをくれた。いずれもタダだ。

「使ったあと、グラブにはボールをこうして入れておいて下さい。試合に行くときも、こうして、ボールを入れておくのです。するとグラブの中に作った『くぼみ』が、自分のものになります」

 彼はそう言ってバシッ!! バシッ!! と、グラブを叩いた。びっくりするくらい、大きい音がした。「使ったあとは、からぶきして、このオイルを薄ーく塗ってあげてください」。

さてここで大工の話になる。

ある男が、自分の家の床がきいきい鳴るので困っていた。友人に相談したら、「ほんもの」の大工がいるという。そこでその「ほんもの」の大工に来てもらった。彼は家の中を一通り歩き、やがて見当をつけた場所に道具箱を置いて、くぎを三本、ハンマーで打った。きいきいいう音は、ぴた、と鳴らなくなった。彼の請求書には、こう書かれていた。

ハンマー代:                                2ドル

どこにハンマーを打つべきかを判別する代金:43ドル
_______________________
        合  計                           45ドル

次はピカソの話。

あるご婦人が、パリの通りを歩いていたら道端でスケッチをしているピカソを見かけた。怖いもの知らずの彼女は、早速ピカソに近づいて、自分の画を描いてくれるよう依頼した。ピカソは快諾し、彼女の肖像をたちまちのうちに描いた。オリジナルのピカソである。

「おいくらかしら?」

「5000フラン」ピカソは答えた。

「5000フラン!!  だってあなたは画を描くのにたった3分しか使っていないじゃないですか」

「馬鹿なことを言ってはいけない」ピカソは言った。「この画はわたしのこれまでの人生の積み重ねによって完成したものだ」。

今日のグラブの代金は、ぼくにとっては、ミズノスタッフの加藤さんのこれまでの野球人生に支払ったものだと言える。

同じく、ぼくと息子の、おそらく人生これでたった一度きりの「グラブを買いに行く」という体験に対しての、代価だと、思っている。

買ったあと、公園で、キャッチボールをした。

息子のボールを受けたら、手がビリビリしびれた。

8月30日。

気持ち良かった。

Mahalo!
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(初出 98/08/30)

 父のいないぼくにとって息子に野球グラブを買ってやる、ということは宝物の体験だ。そして、その体験は、ぼくと息子だけでは、完成しない。

 ミズノスタッフの加藤さんが、仕上げてくれたのだ。

Copyright (c) 1998 by Keiichi Sakamoto/Palmtree Corp. Inc.

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