スマホを置いて、仲間に会おう
ビッグ・ウェンズデー東京、むすび合宿、okami3プロジェクト(自分への手紙)、MAIDO(16と来月から始まる17)、そして来年2025年11月11日の「JOYWOW創業25周年記念パーティ at 東京會舘」で忙殺され、久しぶりの投稿です。
特にビッグ・ウェンズデーは当日
「すみません。欠席します」
なんてのがくる。本人は楽だよね。
メッセージぽん、以上。
事務局はたまらない。
終わりがない仕事。
いまの時代、イベントへの「参加」簡単。タップひとつ。
「すみません。これこれの事情で欠席します」
メッセージやLINEひとつ。
これでいいのか?
昨日、ビッグ・ウェンズデー大阪に「出張のため不参加」という寝ぼけたことを言ってくるのがいたので蹴飛ばしてしまった。
出張なんてのはいつでもできる。
出張が「入った」んじゃない。
「入れた」んだろう。
ビッグ・ウェンズデーは生涯たった一回の宝。
しかも、君のキャンセルによっていったい何人の人が虚しい汗を流さなければならないのか、そこへの想像力がないのか
と。
ほんらい、イベントへの「参加表明」は契約だ。
神聖なものだ。
さて、デジタル・インターネット・SNSが生まれて、大きく変わったものについて考察している。これは上記の体験が大きい。
デジタル以前、世界はread only(読み出しのみ)だった。
つまり、変更不可。
テレビ番組は一方的に流れてきて、ぼくたちはそれを受動的に視聴するのみ。
テレビコマーシャルは「あって当たり前、見ないことはできない」。
シリコンバレーで「一発当てよう」と90年代コンピュータいじってた連中の野心は
「現実をプログラミングしよう」
言い換えれば、
「現実は自分の好みに変えられる」。
デジタル・インターネット・SNSが「日常の当たり前」になって、人類の世界観が変わった。
スマホ持ってるみんな、全員が
「現実は自分の好みに変えられる」
と思ってる。
可変
と
不可
で世の中成り立ってる。
アレキサンダー大王の時代から変わらない。
ヘミングウェイもそこんとこ、わかってた。
漱石も。
ところが、
「現実は自分の好みに変えられる」
可変の分量は果てしなく大きく
不可はどんどん小さくなっていく
という大きな勘違いが生まれた。
勘違いだ。
不可は不可
で、変わらない。
インターネットが熱を帯び始めた2000年ごろ、ぼくも、「Power to the people!」
と、革命が起きる期待にワクワクしてた。
住んでいたニューヨークもその熱であふれてた。
革命とは、不可を消し、可変を増やすことだ。
それから25年経ち、SNSが普及した。
SNSはぼくたちが投稿したりコメントしたり「いいね」押したりシェアしたりで「製品化」する。
つまり、ぼくたちがスマホ画面に何かすることでSNSという製品を成立させている。
YouTubeも、動画投稿がなければ、成立しない。
Googleも、「ググる」ことなくては成立しない。
これをダグラス・ラシュコフは「SNSのために働かされている」という(*)。
まさに正鵠を射ている。
ぼくたちはSNSの労働力化したのだ。
*デジタル生存競争 誰が生き残るのか、堺屋七左衛門訳、ボイジャー社刊
菅田将暉主演映画『Cloud クラウド』観た。
まさに「デジタル化すること」について考察しているいまのぼくの問題意識そのものがテーマで、めちゃくちゃ面白かった。
可変
の分量は、実は決まってる。
人の度量とか、器量とか、能力とか・・・
それを増やしたければ、デジタルに頼るのではなく、
人との出会い
を増やすこと
それによって「想定外」の可変が生まれる。
映画『Cloud クラウド』は、ネットで知り合ったメンバーの脆さが見える。
たった一人、誰も信用しない主人公の脆さが見える。
「クラウド」の脆さが見える。
みんな、人生の「可変分量」を増やしたいよね?
ならば、デジタルにあまり体重乗せすぎるのは良くない。
スマホを置いて、仲間に会おう。
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