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何のための文明?

水をよく飲む。1日2リットル。でかいペットボトル一本まるまる。これが会社だから、自宅も入れるともっと多い・・・いやいや、今日はその話ではなくて(笑)、その水、でかいし重いから毎朝、通勤途上にあるコンビニで買う。そこのPBブランド水が自分に合うから。ただ、その店の接客ウェルカムは皆無で、いい気分になったことが一度もない。セルフレジする。誰が触ったかわからないバーコードスキャナー、感染が気になるが、それ以上に店員さんとやりとりするのがイヤなのだ。

今朝もおやつのバウムクーヘンと水をpi、piやって、持参の袋につめ、店を出た。セルフレジ横には店員さんがいる。いるが、お互い、目も合わせないし、挨拶もしない。もちろん、「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」なし。

店外へ出て、「はて、ぼくはいったい誰から買ったのだろう?」と思った。これ、突き詰めていけば、水やらバウムクーヘンやらを工場からダイレクトに届けてもらえばいいんじゃね? まあ、それは無理な話だけど。「誰から買ったのかわからない」「店も客もどちらもお互い感謝していない」この矛盾。いや待てよ。矛盾が見える、ということは、物事の核心に迫っているということ

秋田県十和田湖南にある大湯ストーンサークルで発掘された薄い直方体プレート、長辺5.8cm、短辺3.7cm。これは何を意味するか。縄文人はどう使っていたか。

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目、口、乳房、正中線に見える小さな穴たち。そう、数を表現している。それも、1 2 3 ........と順番に数えるのではなく、2=1+1 6=3+3  7=2+5  9=4+5 と足し算の結果得られるようになっている。足し算と引き算は裏表だからすぐわかる。これから10 11 12 ........と増やしていくのは簡単だ。

縄文人は「食べられる」「食べちゃダメ」という「区別」のためにネーミング(言葉)を使うと思ってた。つまり具体である。ところがこの数を示すプレートを見たとき、ものすごく衝撃を受けた。具体とは相容れない矛盾を感じたのだ。そしてそれこそが核心であり、縄文人たちは抽象的思考も自在に操っていたことがわかる。まあ考えてみれば、スピリチュアル思想が彼らの中心にあったわけで、それこそ抽象なんだけど。

話をコンビニ買い物に戻す。「誰から買ったのかわからない」「店も客もどちらもお互い感謝していない」矛盾が、次の商いの姿の核心を見せてくれている。

それにしても縄文時代の研究は面白い。いまここに縄文人がいたとして、彼に「ニュートンはね。りんごの落ちるのを見て万有引力を発見したんだよ」と話したとする。たぶん彼は「ダカラナニ?」という顔をすると思う。万有引力だけの責任ではないけど、科学や文明が「発達」した究極の姿が、勝手に店に入り、勝手に商品を棚から取り、勝手に自分でレジして、勝手に店を出ていくシステム。「誰から買ったのかわからない」「店も客もどちらもお互い感謝していない」商いの姿。

そりゃ、縄文人でなくても、「何のための文明?」と思うよね。

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