遊ぼう
ホモ・サピエンス(賢い人)から
ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)へ
オランダのヨハン・ホイジンガは今を遡ること100年近く前、1938年に主張した(『ホモ・ルーデンス』)。
面白いのは、「戦争にも遊びの要素があった。しかるに、現代の戦争にはない。特にナチスにはまるでない。文化的退廃である」。本文でははっきりと「ナチス」とは書いていない。
賢さは正解を求める。
そして正解はたった1つである。
遊びはそもそも正解など求めない。遊び方に正解は、ない。
久しぶりにスノーピーク行った。温浴施設ができたらしいので、体験してみよう。
カッコいい。惚れ惚れする。
入場料はタッチパネルで支払う。画面の指示通りやって、さて、最後は現金を入れ、レシート受け取るだけだというところで、前に進めない。何度やってもだめ。あきらめて、すぐ横にいる受付スタッフにヘルプを頼んだ。
カウンターから出てきた女性スタッフ「ああ。こちらはカード決済のみになっております。現金はこちら」と左のスクリーンを指す。
「ああ。これは失礼しました!! 申し訳ないです」
なんで謝ってるんだろうと自分でも思いながら、左のスクリーンを、指示されるままタッチし、ようやく現金決済できた。
それから風呂、入った。いちいちおしゃれである。ドライヤーはダイソンだし。ただ、風呂におしゃれはいらない。狭いし。
風呂に入りながら、胸の中にあるモヤモヤが何なのか、考えてた。
狭いから? 違う。
接客レベルが低いから? それはある。
なんか、「違和感」という文字を胸に残して、スノーピークを去った。スノーピークは好きなブランドで、これまでずっとブランドの姿勢に共感してきた。
翌日、新潟から戻って、勉強してた。カンブリア宮殿。「グローバルの終焉、ローカルの覚醒」。たねやがやってるラコリーナ近江八幡。
人口8万人の近江八幡市に年間300万人が来るという。
社長の考えに共感した。
「オープンだからといって、キラキラ、全部整えて、さあ、どうぞ、ではなく、オープンがスタート。お客さん、地域の皆さんとも一緒になって育てていきたい」
つまり、自然そのものであり、季節によって違うし、年ごとに変わっていく。
テーマパークのあり方も変わっていくと思ってたので、まさにこれだなあと思う。長くなるので詳しくは省くが、今月オープンした愛知県長久手市のジブリパークもまさにそれで、ゲストが触って、発見して、それで育てていくパークだ。
ラコリーナ近江八幡、これは是非とも行ってみないと。翌日の教養講座でも話したい! そこで急遽、近江八幡に向かった。すでに午後1時半。タクシー飛ばして、JR大阪駅行って。
大阪から近江八幡までは約1時間ちょっと。
入場無料。決済するスクリーンを間違えてスタッフに謝らなくていい。
このメイン建物は背景にある八幡山を主軸に位置を決めたという。
壁はスタッフが塗った。有名建築家、有名建設会社の施工ではない。
コンセプトは「自然に学ぶ」。
稲を植える、脱穀する・・・お客さんもスタッフに混じってやる。
ここには、「サービスの提供者」「受ける者」という区別があいまいだ。
そう、遊び。
人があふれていて、焼きたてバウムクーヘン(クラブハリエ)をいただくどころではなかった。平日にもかかわらず、この人出。
何があるわけではない。むしろ、何もない。たねや、クラブハリエなどのお店はあるけど、それって、大阪駅前のデパートにもある。
何もない自然で、遊ぶ。東京にも、名古屋にも、大阪にもない大自然で。
スノーピークに感じた違和感は、せっかくの大自然にありながら、東京っぽくなってること、そして、入場料決済で感じた「客が正解を出さないといけない」デジタルの負の体験。東京化してしまってる。
年間300万人が来る、ということは、確実に、時代は「遊び」へと流れている証左だと思いました。
帰り、JR近江八幡駅南口を見てみた。ラコリーナは北口。
どこの地方都市にもある風景。イオン。つまらない。
スノーピークはこっちサイドになってきつつあるのかもしれない。
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