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もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら

サマセット・モーム『月と六ペンス』の何が好きといって、書き出しだ。

チャールズ・ストリックランドは偉大だ。ただ、その偉大さは、名を成した政治家や成功した軍人のそれとは違う。彼らの「偉大さ」は、「人として」ではなく、手に入れた「外側」の部分でしかない。環境が変わればものの見事に消え失せる。引退した元首相は、何の話題にでも食いつき持論をまくしたてる横柄で口うるさいだけだし、元将軍は人の大勢集まる市場で自分がどんな手柄を立てたかドヤリングするだけのオヤジだ。
チャールズ・ストリックランドの偉大さは「ほんもの」なのである。人として。

The Moon and Sixpence, by W. Somerset Maugham, 1919, 阪本訳

この書き出しがずっと残ってる。

「人として」「ほんもの」。いったいどういうことだろうか。自分はそうなれるのか。この本、最初に読んだのが1994年だから、もう30年思ってる。

裏表紙が外れかけ、ボロボロです

映画『宇宙人のあいつ』観た。アマゾンプライムビデオにあった。最近、劇場上映からストリーミングに入るまでの期間、短くなったね。助かります。

土星人が、地球人になりすまして、生活する。
ミッションは、土星にない概念を学ぶこと。
土星人にとって、「外側」の偉大さは関係ない。地球限定の偉大さだからね。

土星にはなくて、地球にある概念とは何か。

それは、「家族」「ともだち」。

面白かったのは、「おーい」と後ろから呼びかけられたとき、ぼくたち地球人なら首を後ろに向けて「なに?」or「なあに?」。

土星人にはそれができない。

180度身体を後ろにターンする。

つまり、「家族」「ともだち」という概念がないことによって、後ろから気軽に呼びかける・呼びかけられる、という挨拶の行為が存在しないわけだ。だからそれに対応するモーションも、存在しない。

実はぼくにとって、この人生のテーマが「家族」「ともだち」。

「人として」「ほんもの」になるためには、乗り越えなければならないんだろうなあ、と思ってる。

ただ、どうにも、苦手。苦手なことって、テーマなんだね。やだなあ。

映画では、ブルーハーツの『リンダリンダ』が重要なモチーフになる。

会社辞めて、独立起業するにあたり、旅に出た。ニューヨークへ。子どもと会えなかった。以来、10年以上。物理的距離も、心の距離も、離れた。

そんなとき、この曲と出会った。

バンドでも、カバーした。ぼくはボーカルしてた。

歌詞

もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら
そんな時はどうか愛の意味を知ってください

リンダリンダ

泣けて、歌えなかった。

もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら

そんな時が来るのだろうか。

そんな時はどうか愛の意味を知ってください

というけど、それはそもそも自分(僕)が知らないんだよ。

愛って何なのか。

自分が知らないことを、子どもに「知ってください」なんて、言えるのか?

言えないよ。

うわー。

映画『宇宙人のあいつ』、家族という概念をテーマにするとき、この曲、出すか? 持ってくるか?

泣ける。泣いた。泣いた。泣いた。ないた。

映画最後まで観たけど、残ってるのは、『リンダリンダ』。

この映画、作った人、すごい。

いまのぼくに、的、ズキュン。

今はもう旅終えて帰ってるから、この10年以上子どもとは一緒に暮らしてるし、話もする。成人してる。気遣ってくれる。

でもね。

もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら
そんな時はどうか愛の意味を知ってください

は、たぶん、このあと、まだずっとぼくの中に残っているフレーズだと思う。

それだけ、色、ついてる。ぬぐえないくらい、あつく。

「人として」「ほんもの」。まだまだ修行の身です。

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