超える
超える
ときって、どういう時なんだろう。
ずっと一本道歩いてて
でも、あるとき、ひょいっと、超える感覚になることがある。
本気でやってること
自分のやるべきことに集中していること
逃げないこと
言い訳しない
・・・なんていうのは、こういう話によくある条件で、つまらん(笑)
本気でやってなくて
集中できなくて
逃げまくって
言い訳して
それでも超える
というのは、ないんだろうかと思うとあると気づいた。
超える
というと、自動詞、自分の意志(意思)で超えるように思う。
違う気がするんだよ。
たとえばぼくはここ数日風邪でしんどくてね。薬飲んだり、よく寝たり、外出控えたり仕事しなかったり、できることはすべてやった。
でも、今朝まではずっとぐずぐずしてた。
いまこれ書いてる30日午後になって、ようやく「抜けた」気がする。
風邪を超えた。
で、これ、自分で超えたとは思えなくて、タイミングとか、流れとか、「まあ、そろそろいいんじゃないすか」といった知らない人が決めた気がする。
商いや自分の成長なんかも同じじゃないかな。
JOYWOWは年度が1月元旦から12月大晦日まで。2023年度はおかげさまで良い業績を残せた。でもこれも、「何か」がやってくれたとしか思えない。ぼくは何もやってない。
「あれとこれとこれをやった。だから業績が良かった」
という風に、ビジネススクール的な表現、できなくもない。
でも、それって的を射てない。スケジュール懸命にやったよ。仕事したよ。でも、そこに「成功の戦略」があったとか、そんなのは言えるけど、違う。
ガイアの夜明けでビッグモーターの話観た。あれなんか、「人間が業績を作り出せる」という幻想に浸ってしまったがゆえの姿だと思う。
顕著なのは門外不出の「経営計画書」。
経営は計画通りいかない(笑)。だから計画書作るのはムダなんだ。
逆に計画が生身の人間を傷つけたり、道を外れさせたりする。
マーケティングや経営理論の過ちは、「人を動かせる」という「刷り込み」を前提にしていること。ついさっきUber Eatsからメールが来た。
放っておいてくれ。
コンラート・ローレンツに教えてもらったのだが、動物の社会的行動は、遺伝子で決まるのではなく、各個体の経験によって決まる。
彼の著書『ソロモンの指輪』に哀しい事例がある。
オスのシロクジャク。早く孵(かえ)り、冬の寒さで死んでしまった仲間の唯一の生き残りだ。そのため、動物園では一番温かい部屋を用意した。そこは巨大なゾウガメが住んでいた。卵からかえって、最初に目にしたのがゾウガメだから、自分もゾウガメと思い込んでいる。だから懸命にこの爬虫類に向かって求愛するのだった。美しいメスクジャクには目もくれず。
刷り込みの事例だ。
自分の意思(意志)でなんとかできる。
うまくいかないのは自分がやらないから。
正しい方法を実行すれば、求める解が得られる。
こういったビジネススクール的刷り込みを、いったん、忘れよう。
超える
ときは超えるのだ。
そして、超えない
ときはまだその時期ではないだけ。
運
流れ
そして、ブランド・ジーンの働き。
人間のできることは、ほんの数パーセントしかない。
大事なのは、ほがらかに過ごす。笑って暮らす。
年の瀬、こんなことをぼんやり思ってます。
もちろん、2024年の計画なんて、たてません(笑)
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