当たり前を捨てる

友人家族2組が遊びに来て、大盛りあがり。リビングの床に雑魚寝してしまった。子どもたちは朝早くから遊びに出たらしい。朦朧意識の中で見てた気がする・・・と、ピンポーン。モニタに良く知ってる顔。

「所ジョージさんだ!」撮影クルーも大勢いる。

妻(タレントしてる)に「撮影って聞いてないよ」「言ってなかったっけ?」ともあれ、片付けなきゃ。テーブルの上は食べ残した皿やらグラスやらぐっちゃぐちゃ。あわてて洗面台行くが、なんじゃかんじゃモノが溢れてる。床は水、びしゃびちゃ。拭かなきゃ。バウンティ(キッチンペーパー)どこだ? えっ!? ないの? 床に水あっても平気な家なの? ・・・というか、洗い物、片付けせずに寝てしまうって・・・・うちじゃない。うちの「当たり前」とは違う家だ。

・・・夢だった。

ぼくたちの世界は「自分(たち)の当たり前」で出来ている。

スクリーンショット 2021-09-04 9.31.26

家庭も、会社も。この写真、2017年にハワイ大学へ行ったときのものだけど、その時、子どもが道を見つけられずにいた。家族でホノルル行ったついでに「ハワイ大学にでも、留学してみるか」と見学行った。結論としては、「ここじゃないなあ」となったのだけど、その当時の我が家の「当たり前」は「留学でもすれば次の道が見えてくるかもしれない」「ハワイ大学は優秀だから、何か得られるかもしれない」。

「子どもは家にいる」が「当たり前」だった。

いまの我が家の「当たり前」は「子どもはめったに家にいない」「外でバリバリ仕事する」「たまに家にいるときはオンライン授業で教えてる」。

諸行無常。瞬間瞬間、変化している。

スクリーンショット 2021-09-04 9.42.16

「当たり前」というのは、過去のものだ。過去の経験、知識が作ったもの。これでいい、と思ったとき、下り坂になる。下り電車に乗ってる。会社で交わされる言葉は基本、過去の経験から「プラス」の符号をつけられたものである。でも、諸行無常、世の中は常に変わってる。昨日のプラスは今日マイナスになってるかもしれない。「当たり前」が、下り電車のきっぷ。

先日、投資家の友人と話してて、「さっぱりわからなくなっちゃった」。半導体、建設資材の木材、鉄鋼など、すべての資材が値上がりしている。そして動かない。相変わらずコンテナが動かない。半導体始めとする産業基礎物資が「ない」「動かない」「値上がりしている」。ところがそれの理由が特定できない。本当によくわからない。CO2排出とか敢えて理屈をひねり出せなくもないけど、芯を食ってない。「だから何に投資すればいいのか、正解が見えないんだよ」つまり、彼にとっての「当たり前」が見えない不安なんですね。ぼくは「それって、君の『当たり前』を捨てる、いいチャンスじゃん。だからいいことだと思うよ。これから上り電車に乗れるよ」と言った。

・・・これ書いてるいま(9/4 9:54am)めっちゃくちゃすごい雷が何本もなって、ビビってます(笑) 何これ? こういうの、初めて。

そう。「上り電車」に乗るためのきっぷはどうすれば手に入るかというと「当たり前を捨てる」。言葉を新しくする。自分の中の論理(因果)を刷新する。

ということは、夢の中でぼくは自分がいま持っている当たり前を捨てざるを得ない状況に放り込まれたわけで、上り電車のきっぷを手にするチャンスだったんだね。残念! タレントやってる妻の顔も忘れた。残念!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?