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時間にはもう1つの顔がある

記事がラジオになったよ

「働くということについて」 が同じnoteクリエイター「らじ」さんにラジオで朗読していただきました。

自分の文章なのに、イヤホンで聴くと、らじさんの優しい声によって、また違う世界観に染め上げられる体験をしました。

らじさん、ありがとうございます。

新しいドアを開かれたようで、応援しています!

体験と言葉のサイズ違い

さて、昨日、ある人と話した。彼女は東日本大震災を被災、その後ボランティアをずっと続け、マスメディアからの取材も受けてこられた。来年3月で10年になるというのでまた取材にひっぱりだこで、取材を受ければうけるほどしんどくなると。

詳しくは省くけど、それって、2つの理由があると思った。

1つは、体験はあくまで個人1人ひとりのものであり、遠大な、宇宙規模のサイズであるにもかかわらず、「取材」となると、どうしてもその体験を言葉にしなきゃならない。言葉は鳥かごのような狭いもので、言語化した途端、「なんか違う」。

まして、取材相手の人にわかるよう懸命に当てはめるワードを探さなければならない。ただでさえ思い出すのもつらい被災体験なのに。そして体験は「終わった」ものではなく、「現在進行形」である。今も続いている。

そりゃ、しんどいよ。真面目に取り組めばとりくむほど。

ここで痛感したのは、「体験は無限スペース、言葉は鳥かご」というサイズの大きな違いだ。ではなぜ体験は無限スペースになるか。

時間が関係している。時間が2つめの理由。

「時間は砂時計」と思っているけどもう1つの顔がある

ぼくはずっと時間は砂時計、一方向に流れて、元には戻らないと考えてきた。

特に60歳超えてから、いつも「有限」を意識して、だから時間を大切に使おう、優先順位をちゃんと立てて仕事したり生活したりしようと思ってきた。

ところが昨日、ハリール・ジブランの『TIME』という詩を読んだ。

時間にはもう1つの顔のあることがわかった。

訳してみるね。

(『TIME』翻訳ここから)

時間

天文学者が尋ねた。「時間とは何でしょう?」

アルムスターファは答えた;

人は時間という、尺度がなく、測ることのできないものを測定しようとする。

時間や季節の移ろいに行ないを合わせ、心の動きさえ従わせようとする。

時の流れを川に見立て、その土手に腰をおろしてそのせせらぎを眺めようとする。

ところが。

あなたの中の存在は時間など無関係だ。

生命(いのち)に時間など、ない。

昨日は今日の思い出、

明日は今日の夢。

あなたの中で歌い、考えにふける存在は、宇宙に星たちがばらまかれた最初の瞬間の世界で暮らしている。その存在はあなたなのだ。

感じない人がいるだろうか。

存在の愛する力が無限であることを。

感じない人がいるだろうか。

その愛が、無限でありながら、同時にその存在の中心から決して外れないことを。

愛ある思いから愛ある思いへ、

愛ある行ないから愛ある行ないへ

揺れ動くことなく、そこにあることを。

時間と愛はどちらも、分かれることも、動き回ることもない。

しかし、どうしても時間を測って季節に分けたいというのであれば、一つひとつの季節が、ほかの季節を包み込むようにしよう。

今日という日の中に、過去の思い出と、未来の憧れの、両方を包み込むようにしよう。

(『TIME』翻訳ここまで)

阪本解説

時間について、こういう見方をするのは初めてで、救われる気がした。

生命の定義につながっていくのだけど、個々の身体に宿っている生命は、肉体が終われば終わってしまう、時が止まるのではなく、実は宇宙創世の瞬間から生きていて、これからも生き続ける。

確かに「時間」というコンセプトは人間が太陽と地球の公転・自転をベースに生み出したフィクションに過ぎず、それに対して、宇宙というものはずっと存在し続けているノンフィクションなのだから、当然といえば当然だ。

なんだか、楽しくなってきた!

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