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THE COPY TRAVELERS「THE COPY TRAVELERSのトッピングシャワー」

《Documenting20240225》
THE COPY TRAVELERS
「THE COPY TRAVELERSのトッピングシャワー」
於:東葛西1-11-6-A倉庫

 THE COPY TRAVELERS(以下コピトラ)に関しては、2019年のMOTアニュアルなどのグループ展で何度か見ていたが、個展を見るのは初めて。今回の展示は、昨年12月に青森の八戸で見た山車の制作現場が発想源になっているという(https://padograph.com/ja/events/1774)。昨年12月と言えば個展の2か月前でしかないが、そこから制作したとは思えないほど多くの作品が展示されており、どれも即興的でありながら美的操作に確信の感じられるパリッとしたものばかりだった。

 入口に展示されていた小ぶりの写真作品には、動物のフィギュアやミニカーが神輿を背負ったオブジェが写されている。これはストレートに山車っぽいが、コピトラのメンバーの迫鉄平氏が解説してくれたところによると、「ハンバーガー」のイメージも背景にあるという(タイトル中の「トッピング」もハンバーガーのそれを指すのだろうか)。あるハンバーガーのレシピ本を読んだところ、驚くほど多様な具材を使ったハンバーガーが紹介されていたが、どれも見た目は似ているのが面白いと思ったとか。なるほど、いくつもの具材を重ねてひとつの料理にするハンバーガーは、雑多なオブジェや写真を一枚のイメージに詰め込むコピトラの作品にも通じる。しかもできあがったものは、その具材/指示対象の多様さによらず、全体としては統一されている。このときひとつひとつの具材/指示対象はパラディグムであり、それらを束ねたハンバーガー/コピトラの作品は一定の形式を持った文の構造を備えている。このハンバーガーの形式が具材をタテに重ねた円筒であるなら、コピトラの形式とは矩形のイメージだ。カメラのレンズに向かって奥から手前へ、また上下左右に配置された指示対象を等価な平面に圧縮したイメージ――。あらゆるもの、複数のものを一枚のイメージに変換するこの写真の機能は、彼らが大学で学んでいたという版画に通じるものがある(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/21187)。たとえば銅版画は削られた銅版という極薄の立体から平面のイメージを取り出す技術だし、シルクスクリーンの多色刷りは複数の版に描かれた形象を一枚に統合するものだ。

 ところで私は、迫氏の解説を受けるまで、彼らの写真作品はデジタル合成も使っているものだとばかり思っていた。しかし今回出展されていた大型の作品も含めて、基本的にすべて一発撮りの写真だという。大型の作品の場合、壁面に棚を設置し、3人で即興的にオブジェを置いたり写真を貼り付けたりしたものを撮影するそうだ。やはりここでも、3次元的な奥行きのある立体物と、雑誌の切り抜きといった平面的なものが等価に圧縮されてコラージュされている。実際には、植物とプラスチック製品といった質感の異なるものの並置や、画面外から伸びる指、あるいはギャラリーの壁といったメタ的な要素を組み込むことによって、まるで合成したかのような奇妙な効果を得ているのだが、本質的にコピトラの写真作品の面白さとは、カメラという装置の機能を強調している点にあるのではないか。カメラと透視図法的空間を共有する近代絵画について、マーティン・ジェイは「単眼によって切り取られたワンショットは時間を超越し、一つの「視点」に還元され、脱身体化された」と述べる(「近代性における複数の「視の制度」」)。写真に写っているものは指示対象そのものだが、それは我々の目で見た「もの」の姿ではなく、カメラの単眼の目が構成した空間における「もの」なのである。コピトラの極めて明瞭な画面を見て、それが合成した写真のように感じるとき、逆説的にあぶり出されているのは、写真には指示対象そのものが写っているはずだという我々の思い込みであり、ひいては我々の視覚的経験もカメラと同じく「もの」そのものを見ることに失敗した表象のヴァリエーションなのだということだ。

 そんなことをぼんやり考えながらアクリルボールの作品を見たとき、にわかにその意味がわかった気がした。これは直径20〜30cmくらいのアクリルボールの中に様々なオブジェや雑誌の切り抜きを詰め込んだ作品で、見た目は大きなガチャガチャのようである。平面作品が並ぶ展示の中では異質とも言えるが、実はこれも平面のイメージなのだ。どういうことか。ボールの中のものがはじき返した光は、我々の目に届く前に必ず透明なアクリルを経由する。このとき我々は、カメラのレンズ越しに世界を見るように、アクリル越しにしか中のものを見ることができない。つまり雑多なものを包むアクリルボールは極端に曲げられた凹レンズであり、アクリル越しにオブジェクトを見る我々はカメラを手にした観察者、あるいはカメラ内部のセンサーの位置に移行する。鑑賞者が移動すると見えるものが変わるのは、レンズの向こうで一瞬一瞬違う平面のイメージが生成されているからだ。実は迫氏の解説によると、このアクリルボールはスキャナーのガラス面のイメージで作ったという。なるほど、このボールが置かれていた机には、コピー機でプリントした彼らの作品が敷き詰められていたことがその関連性を暗示している。私はこのスキャナーの話を聞いたとき、我が意を得たりと思った。このアクリルがスキャナーのガラス面であるなら、我々はスキャナーの内部にいることになり、その視覚はスキャナーのセンサーの役割を果たすことになる。カメラとスキャナーの仕組みの相似性を考えると、私の見立てとコピトラのコンセプトはほぼ同じものと言って差し支えないだろう。さらに、彼らが作品制作の際にさまざまなものを置くスキャナーのガラス面は、レオ・スタインバーグが平台印刷機から借りた「平台型絵画平面」というアイデアを想起させる(「他の批評基準」)。スタインバーグが絵画の平面性を強調するモダニズム批評に意義を申し立て、何でも仮設的に取り付けることができる作業-面としての平台型絵画平面を提案したのに対して、コピトラがアクリルボールでやっていることは、作業-面としてのスキャナーのガラス面でオブジェクトを包むことである。スタインバーグが還元的なモダニズム絵画の「見る」ことよりもものを寄せ集めて「つくる」ことを強調したのと同様、コピトラのアクリルボールも「見る」ことより「つくる」ことを優先している。なぜならどの角度からも見ることのできるアクリルボールは、見ることの権利を全的に鑑賞者=スキャナーに明け渡しているからだ。また、スタインバーグの論文の最後にはロイ・リキテンシュタインとアンディ・ウォーホルというポップ・アーティストが登場するが、彼らがメディアに流通する写真やコミックといった人工的なイメージを取り上げたように、コピトラもプラスチックのおもちゃやグラビア写真、鉢に押し込まれた観葉植物といった身の回りの人工的なものを利用する。ポップの生成しているものはイメージのイメージであり、そのできあがったイメージが元のイメージから離れていくほど――ウォーホルのポートレートが実物とは似ても似つかない色で複製され、リキテンシュタインの画面が印刷の網点を強調するほど、元のイメージの人工性が際立つ仕掛けとなっている。コピトラが立体のおもちゃや雑誌のグラビア写真を併置してまるで合成したかのような錯視効果を写真作品に与えるとき、人工的な指示対象はさらに別の位相の人工的なイメージへと移行している。それは身の回りに流通するイメージと人間の新たな関係構築のためのレッスンであり、鑑賞者にとっては己の視覚的経験の形式を意識するための検査器となっているのだ。

 今、私が気になっているのは、展示されていた作品がシリーズを問わずなぜかよく似た外見を持っているということだ。ハンバーガーがどれも似ているように。それは構成的であるより選択的であり、創造的であるよりファウンド・オブジェ的であるという写真の性質によるものかもしれない。しかしこれ以上のことを言うためには、写真についてもコピトラの作品についてももっと知らなければならない。

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