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ナイロン100℃『Don't freak out』 / 山村浩二ほか「『幾多の北』と三つの短編」

※各作品のトップ画像は公式サイト・ニュースサイトより転載


《Day Critique》151

ナイロン100℃
48th SESSION『Don't freak out』
@ザ・スズナリ

 時代設定は大正〜昭和初期。舞台は雪の降る寒い町の名家の女中部屋。おしろいを塗った役者たちが出入りするこの部屋の真ん中には、狂人を閉じ込めた地下牢の入り口が設置されている。寺山修司の『田園に死す』と夢野久作の『ドグラ・マグラ』を合わせたような悪夢的な世界観だ。役者たちの研ぎ澄まされきった演技や、プロジェクションとノイズによる視聴覚効果によって、スズナリの劇場ごと異空間に飛ばされたかのようなスペクタクルを実現していた。

 この家では、息子の当主も口を出せないほど母親が強権をふるっている。しかし彼女が風呂に入ったまま茹で上がるという滑稽な死に方をしてから、まるでタガが外れたように家は内外から揺さぶりをかけられる。怪しい葬儀屋の侵入、狂人の起こす事件と感染病、妻の錯乱、娘の火傷――。雪崩をうつような名家の崩壊をつぶさに見ていた女中の姉妹がラストに上げる笑いが清々しい。

 この女中の姉妹は物語の目撃者であるが、彼女たち自身も事件に巻き込まれる当事者だ。この家に30年近くも勤めながら「女中風情が」とさげすまれ、男たちに騙される彼女たちを軸にした本作は、女性の受ける抑圧を可視化する女性演劇という側面もある。妹の方は石川啄木の『一握の砂』を自分の命のように大切にしているが、もちろん彼女は文学や学問の世界から遠ざけられたまま劇が終わるのが悲しい。

(2023年3月7日記)


《Day Critique》152

山村浩二監督作&プロデュース作品
「『幾多の北』と三つの短編」
@新文芸坐

 世界4大アニメーション映画祭を制した唯一の作家・山村浩二の最新作『幾多の北』ほか3本の短編を上映。

①幸洋子監督作
『ミニミニポッケの⼤きな庭で』

 幸監督は藝大大学院の山村の教え子だそうだ。上映が始まるなり爆音で音楽が流れたので、すわ音響ミスかと思ったが、和楽器やファズギターその他なんだかよくわからない音の塊りは児戯のように空間を飛び跳ね、フレッシュな勢いを伝えてきた。

 エプロンのアップリケのようなかわいらしい背景の上で、子供がクレヨンで描いたようなキャラクターが動き、メタモルフォーズする。これはぱらぱら漫画用の小さな紙に描かかれたものらしく、それを新文芸坐のそこそこ大きなスクリーンに投影しているのが面白い。万華鏡のようにカラフルな画面は、おそらく原寸大で見るのとは違った質を獲得しており、音とアニメーションを浴びるような体験をもたらしてくれた。

②山村浩二監督作
『ホッキョクグマすっごくひま』

 鳥獣戯画を模した巻物アニメ。横スクロールしていく背景の上でキャラクターが動く。これは和紙の上に筆で描いたものらしく、背景もキャラクターも同じメディウムで統一されている。実は複数のレイヤーをデジタルで合成しているはずだが、最終的なアウトプットにおいては一枚の紙の上に描かれた絵が動いているように見える。古典的メディウムとデジタル技術のうまい融合。

 日本語と英語のリズム・韻を生かした言葉遊びが軸になっており、山村作品の音楽性を楽しめる小品。

③矢野ほなみ監督作
『骨嚙み』

 こちらも山村の藝大の教え子の作品。ストーリー性のない前2作とは異なり、作家の実体験を元にした父との死別が描かれている。仕上げ(わかりやすく言うと漫画におけるペン入れに相当)に点描が取り入れられており、無垢で素朴な雰囲気となっていた。

 ところでなぜ我々は点描に無垢さ、素朴さを感じるのか。逆に線の場合を考えてみると、線のあり方には作家の意思や表現の選択が宿る。しかし点という単純作業・レイバーワークには、作家が表現を捨てて対象へ身を投げ出しているかのような印象を受ける。だから観客はその作品を無垢で、素朴な「祈り」のようなものだと感じるのだ。

④山村浩二監督作
『幾多の北』

 山村浩二初長編と銘打たれているが、64分の中篇と言っていい長さ。内容も因果関係やストーリー性を排除した点景的な描写が続く。時代性を超越した詩情と表現で織りなされた真に見るべき傑作。

 まず机に突っ伏す男。その脇にはハサミを持った女。机の上には羽ペンを持つ小人ふたり。「北」へ向かっているというこの小人たちは男の思念を表象しているのだろうか? 映画は男が「北」で出会ったというさまざまな人々や風景を綴っていく。

 観客が目にするのは、水が漏れ続ける袋を延々修繕する小さな労働者たちだとか、目隠しをされて屋上の縁に立たされる男だとか、過酷な状況ばかりである。女に抱え上げられ机の下の大量のカタツムリを見せられるという語り手の男の状況もなかなか陰惨だ。震える人物たちの姿はジャコメッティの彫刻のようでもある。断片的で地獄めぐり的な内容という点では、昨年公開されたストップモーションアニメ『マッドゴッド』にも似ている。モノクロームに見える彩度の低い画面や、にぎやかなのに人生の終わりのような諦念を感じさせるウィレム・ブロイカーのジャズもあいまって、全編に物悲しさが漂う。

 本作にはもともとストーリーがあったというが、構成にあたって「因果関係やドラマから離れた」という通り、ここに一貫したストーリーは読み込めないし、描かれているシーンもシュールで現実との対応関係が見えない。またそのような受け取り方をさせないようにもしているのだろう。だが、言わんとすることが明確なシーンもある。たとえば多数の操作者が操る空洞の腕の見せ物。作中で、この腕の動きは「吸引力がありすぎる」と表現されている。映画において「吸引力」という言葉を聞いてすぐさま思い浮かぶのはエイゼンシュテインである。映画を構成するショットの吸引力にこだわった彼は、自在に形が変形するアニメーションの魅力についても論じたことで知られる。多数の人間によって動かされるこの腕の見せ物はアニメーションの比喩であり、頭に巨大な装置を被ってそれを見ている裸の男は吸引力に抵抗できない大衆だ。このシーンは、上映後のティーチインで山村が発した「アニメーションは下手をすれば洗脳的な力になる」という言葉と対応している。そしてその洗脳的な力に対抗するため、山村は「こういう時代には自明でないものを作った方がいい。受け手が頭の中で作っていくものがいいと思っている」とも語っていた。ウンベルト・エーコの言う「よくわからない芸術」に賛同するという山村の作品は、観客の感性や自ら考える力をアクティベートしてくれるだろう。

(2023年3月8日記)


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