見出し画像

役に立たない思い出や風景

 心が疲れたり、悩んで嫌になったとき、そっと寄り添うバラードがある。こんなもの読んでも立ち上がることは出来ない。でも、ノウハウのようにすぐ役立つものは、すぐ役立たなくなる。これも経験済みだ、いつもそうだった。だから今は心に体重をしっかりおきながら、思い出や風景に浸りたい。
 
「役に立たない思い出や風景」を書いてみたい。
読後に掃除機を掛けたり、カーテンを洗濯してついた埃を洗い流したり、ただ黙々と身綺麗にしたいと思う、そんな風景を描きたい。感動しても落ち込んでもすぐに身体は動かない。だからせめて身の回りから空気を変えたい。蝶の羽ばたきが嵐を起こすようにいずれ世の中が変わるかもしれない。
 
女優の石田ゆり子さんがこんなことを言っていた。
「ずっと前から思ってた。本を読んでいる人の姿は美しいのに、スマホをいじっている人の姿は美しいとは思わない。つまり、本能的にわかっていること」
FacebookもTwitterも、読めば心が震える。でも、その震えは怒りであれ、歓喜であれ、意図的に増幅されたものだ。文字というより胸に刺さる刃物のようなものだ。

読書は読者まかせになる。だから、読者の数だけ見える世界がある。言葉が異臭を放つこともあるが、心の震えを抑える役目も果たす。
SNSの言葉は、喜びであっても怒りであっても口語に近い。それでいて扱う文字は稚拙なものが多い。
まったく美しくない。だから言葉から何も生まれないし風景も浮かんでこない。だだ情報としてその場の感情を垂れ流している。
 
ここに、オードリーヘップバーンの名言がある。
「美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい」
美しく生きていくための知恵のような気がする。
 
SNSの汚れた言葉に気づいて欲しい。
感情まで変えろとは言わない。感情は隠したままで構わない。
でも汚い言葉は他人の心に伝播して、その人の言葉を汚して心の奥に沈んだ淀みを掻き回して表面化させる。その言葉は他人だけでなく、言った本人を苦しませる。
他人を罵る言葉を吐いた時の、自分の顔を想像してほしい。「美しい唇」にはけっしてなっていないはずだ。
 
綺麗な言葉と美しい言葉は違う。
美しい言葉の裏には、その人の強さが隠されている。苦渋と後悔が言葉を支えている。だから、読者が掃除機を掛けたり、カーテンを洗濯したり、黙々と身綺麗にしたいと思う。
 
綺麗な言葉じゃなくていい。それよりも美しい言葉を使いたい。
そして美しい言葉で「役に立たない思い出や風景」を書いてみたい。

親であること、子であること

 その日、私は退院後の検査のため病院に来ていた。通路に置かれた長いすに固く座り、レントゲン検査の順番を待っている。手持ちの用紙に記された番号は4568、この番号が何を意味するのか、今も分からない。番号用紙を胸に抱えた囚人の写真を自分に重ね合わせ、苦笑いを隠すしかない。そんな妄想を破壊するかのように看護師だけがてきぱきと動いている。清潔な空気なのに冷たさしか感じられない病院の通路だった。

 私の目の前を大柄で屈強な男が老婆の手を引いて導いてきた。老女は腰も深く曲がり歩くのも覚束ない。それでも黙々と大男に従っていた。
髪に白髪が混じり始めたこの大男と親子であろうか。男は老女の歩幅に合わせ、目的地への道のりに少し苛立ちを抱えているようだった。ときおり老女に厳しく注意している。それは注意というより怒りに近いものだった。

その姿を傍で見ている身には、もう少し優しく言えないものかと嫌な光景を見た気分だ。しかし、その時の男の母親を見る目はどこか悲しげだった。ままならぬ老女への怒りではなく、年老いてしまった母への不合理な苛立ちと寂しさがあったかもしれない。

手を引かれる老女には、もう自分がこの子の手を引いた記憶はないだろう。今手を引いている息子にも、この母親に手を引かれ駄々をこねてた自分の姿も、記憶の隅にもないかもしれない。

 恥かしいけれど、たまにはそんな自分と母親を思い出してみよう。
小さい頃、母親とつないだ手には、繋がるあたたかさがあった。何があろうと自分はここにいていいんだという安心感が得られた。子供にとって親は唯一のものだった。逃げ場と言えるかもしれない。母親が老いた今、はたして自分は母親が安心感を得られる逃げ場となっているのだろうか。親であること、子であることをたまには思い出したい。

 私の生まれた家には大きなさくらの木があった。祖父が建てた家だからかなりの年代ものだ。不釣り合いな大きなソメイヨシノが狭い庭を威張るように占領していた。台風の夜は小さな平屋がいつ潰されるかと家族みんながひやひやしていた。しかし春だけはご近所の憧れとなり、自慢の庭園になった。そして今では珍しい縁側のある家だった。

私と弟は温まった板の縁側で両足をぽんと投げ出していた。その真ん中で若い母が両手を思いっきり広げて二人を抱きかかえている。三人が口を開けてゲラゲラ大笑いしている。庭からお道化た父がカメラを向けていたからだ。暗くて寒い北側の台所をいつも嫌ってた母なのに、このときばかりは祖父のこだわった家とさくらの木に溶け込んでいた。小学生の頃だった。ただ無邪気だった。さくらの花びらもはしゃぐように舞っていた。

母という文字を見ると、いつもこのモノクロ写真を思い出す。自分が母の子どもであったことを思い出す。

親であることはどうだろうか? 思い出でなく、今その時かもしれない。


音楽が聴こえるストーリー

音楽と文章はよく似ている。

 メロディは哀しい物語に姿を変えて小説の読者を魅了する。音符のひとつひとつは文字であり、ひらがなと漢字の組み合わせは和音(コード)のように、文章の雰囲気をつくりだす。言葉づかいの叡智は、歌い手の声質であり楽器の音色だろうか。
 
交響曲(シンフォニー)と交響詩。
コンサートマスターは主人公で、オーケストラの各奏者(登場人物)を統率して、コンダクター(著者)の想いを表現している。
 
1980年代、人気シリーズだった「火曜サスペンス劇場」はエンドロールの主題歌に向かって物語が流れていた。物語は「聖母たちのララバイ」のために書かれたような気がした。
どんな風景も岩崎ひろみの歌声にシンクロしていた。物語の渦中にある残忍なシーンも美しく縫い合わされている。心の落としどころが安心感を与えていた。
 
そしてこんなMVにも出会うこともある。
絢香 / 「空と君のあいだに」Music Video(Story1)
歌詞と旋律が物語(ストーリー)をつくりだし、映像で表現している。綾香の声のひびきが感情のうねりと情景描写へと繋がる。ひとつの映像なのに、見る者によって様々に見える。目の前の映像と自分の過去が同時に存在していた。

音楽と文章は同じ世界に住んでいる。

私もいつかこんな物語を書いてみたい。


盲目の少女

 街なかの信号待ちで車を左の車線に止めていた。中央寄りの車線より心地よく落ち着く気がする。となりの車線に並ぶ知らない男性の顔を覗かないで済む。わざわざ見なくていいのに、信号待ちの手持ちぶささで顔を向けてしまう嫌な癖があるからだ。だから何となく左の広い歩道に目を向けていた。

白い杖で黄色い点字ブロックを心細くたたく少女がいた。その歩みは不安気で、車の窓越しに見ていると、私の唇も震えてきた。

新学期から歩行練習を始めたのか、後ろに先生のような大人が寄り添っている。ちょっと進んで立ち止まる、怯えた小さな心が足元の可愛い運動靴を震わせていた。私は車の中で「がんばれ」とくちを動かしていた。

 生まれた時から見えないのか、それとも事故か病気で見えなくなったのか、私にわかるわけはない。そして今、それがどうしてあの子なのか、関係ないのに、ただ通り過ごしただけなのに胸がザワザワする。かわいそうにという無責任な言葉も一瞬心に浮かぶ。

それでも信号が青になれば私は前に進むしかない。こうして心のザワツキは終わる。

こんな思いを何度も繰り返してきた。

 家に着いたら、少女を感じて強く娘を抱きしめようと思う。心のザワツキが蘇る。無責任な感情はいつまでも収まらない。それでも今はそうするしかない。

街なかで少女が震えていたら、今度は腕を差し出そう。
急ぐ理由なんて何も無かった。ただ逃げていた。

彼女のこれからの人生を軽い言葉で想像しても私には追いつけない。
でもそれくらいなら私でも出来る。


カメルーンの青い魚

さかなにも顔があることを憶えているだろうか?
私は忘れていた。
金魚鉢の中で泳ぐ姿ばかりに見惚れていた。

タイトルは、町田そのこさんの「夜空に泳ぐチョコレートグラミー」から。

「52ヘルツのクジラたち」が本屋大賞に選ばれた。
本屋に行けばどうしても目立つ。入口の平台に何冊も並べられている。
パラパラとページをめくり、目を流してみると、52ヘルツとも、クジラとも関係なさそうな会話から始まっていた。そして、もう一度蒼い表紙に戻ると、心地よくて奇妙な図柄に魅かれた。でも、初めての著者に対して、1,600円はちょっと高いかな、なんていつもの優柔不断を誘う臆病神が顔を出し、棚に戻して奥に向かって歩いていた。この作者の別の本を探ろうと思った。
手にしたのが、「夜空に泳ぐチョコレートグラミー」。

 帯の言葉に誘われ、最初の短編「カメルーンの青い魚」を捲った。ここでも、カメルーンとも青い魚とも関係ないみたらし団子の話から始まる。でも、単行本の大きさがしっくりする。インクの匂いがページをめくる手を誘う。新刊の真白いページに無い、懐かしさを感じる。そう言えば、「52ヘルツのクジラたち」も新刊の固さは無かった。ハードカバーなのに少しやわらかめの紙で表紙が板のようになっていなかった。クリーム掛かったページの色が文字に優しさを与えていた。

主人公のサキコが語る文章は、何処かたどたどしく、知性とか理性とかいう「理」の部分を感じられない。でも正直で朴訥で、読み進めるうちに愛着を感じて応援したくなる。サキコの物語は既に終わっているのに、「りゅうちゃん」との会話の行間や風景に自分が溶け込んでいくようだ。私はサキコに入れ込んでいた。紙面の出来事と並行して、サキコは思い出が湧き、感情が動く。その描写でサキコという女性をさらに好きになる。

そういえば自分もそうだった。
出来事に対していつも反応してるだけじゃない。相手の言葉に悲しんだり怒ったりするだけじゃない。その裏でやるせない過去を反芻していた。

丁寧にこころを描いている。その描写が物語に厚みを加えている。
そして、「夜空に泳ぐチョコレートグラミー」へ続く。

 「カメルーンの青い魚」でおとなしくしていた息子の啓太が、今度は動き出す。いや、前の物語の中でも啓太はずっと街の中でもがいていた。母親のサキコをじっと見ていた。もがきながら自分の物語を創っていたようだ。そんな啓太が主人公になる。

口の中で稚魚を育てて外敵から守る、チョコレートグラミーのはなしを展望公園で聞いた。登場人物は、みな金魚鉢の中で泳いでいるようだ。外に出たくても、誰も掬ってくれない。チョコレートグラミーのように、口の中で守られてたこともあったけど、自分から飛び跳ねるしかない。

短編は、「波間に浮かぶイエロー」と「溺れるスイミー」へと続く。「夜空に泳ぐチョコレートグラミー」のように、サキコと啓太が意外なところで絡んでくる。ドラマのスピンオフを見ているようだ。

 「波間に浮かぶイエロー」や「溺れるスイミー」で現れたサキコを発見して、「カメルーンの青い魚」のサキコがここでも泳いでいることを思い出し、なぜか安心する。そして、金魚鉢のさかなたちが登場人物としてそれぞれの顔を見せる。短編の端々が重なって「不思議」と色どりを添えていく。その重なり具合がふんわりと心地いい。

最後の「海になる」で、チョコレートグラミーで去った春子を見つけ、ああよかったと、安心した。

それぞれがそれぞれのドラマを演じている。
纏まりが無いようで、何処かで繋がり温かい。不思議な感覚だ。
切なくて美しい、強くてうれしい、そんな読後感の連作短編集だと思う。


玄関にならんだ小さなくつ達

 玄関を開けたら小さなくつ達が並んでいた。
並んでいると言っても、生き物のようにあっちを向いたりこっちを向いたり。どうやら娘の友だちが遊びに来たようだ。
いち、に、さんと、数えれば七人もいる。おかげで私の靴を置く場所もない。

色鮮やかなくつ達で、西日の当たる小さな玄関が明るくなっている。中ではちょっとした小学生の女子会が始まっているのだろうか。疲れも忘れてウキウキするのが不思議だ。

これがほんとの女子会だ、と思った。
世間で言われる「女子会」は、どうも年齢制限が無いようだ。三十過ぎても、五十を過ぎても女性の集まりは「女子会」と呼ばれ、男性は常に排除される。対しておとこの集まりは、年齢に関わらず「男子会」と呼ばれることはない。大人の「女子会」は少し閉ざされた賑わいと化粧の匂いが想像できるが、「男子会」には、喧騒と芋焼酎の酒臭さしか思い出せない。やはり、「男子会」という言葉はこの先も世間に認知されないようだ。

 今どき小学生のキラキラ女子会はどんな展開になっているのか。くたびれた黒い革靴を玄関タイルの隅に置きながら階段の上に耳を澄ませてみた。
幼い女子に嫌われるオヤジの所作が既に始まっている。

ジュースとお菓子では大騒ぎといかないが、二階の娘の部屋からは、カンカンと高い笑い声と、カチャカチャと動き回るハムスターのような足音がいくつも聞える。
 
子どもの足音ってなんてしあわせなんだろう。
大人のようにドタドタと不愛想でなく、足音を運ぶ速さと軽さが軽快なリズムになっている。単音でなく、何人かが奏でるリズムセッションのよう。そこに様々な笑い声という歌が加わる。厚くて温度の高い空気感を作っている。七人もいれば、ちょっとしたコンサート会場のようだ。

何がそんなに楽しいんだろう。でもそれは愚問だった。楽しいと思うから楽しいのだ。理由はない。大人になると余分なものを身につけただけ、その纏わりつく何かに意味を求め始める。意味や理由ばかりに気を取られてしまう。理由なんていらない。ただこの場がうれしい。子どもたちの笑い声は新鮮で曇りがなかった。

 でも、そんな緩んだ思いは一瞬で崩される。
バタンとドアを閉めた娘とひとりの友だちが階段を足早に降りてきた。私の顔を見ると、娘が「なに」と恥ずかしさを隠すように怪訝な顔を向けた。友だちの女の子も同じ顔をしていた。娘にも娘の外向きの顔があるんだろう。よそよそしさは、今わたしは友達の輪にいると父親の存在を拒絶していた。確かにわたしはここに場違いだった。
そして、その場から逃げるように妻に救いを求めた。

「にぎやかでしょ」「急に決まったみたい」と、にこやかだった。
でも、きっと女子会が提案されてから娘とふたりですったもんだしたことだろう。妻も娘もこういう集まりは嫌いじゃない。でもその影には「誰々ちゃんの家はどうだった」と共有するライバル心があったことは容易に想像できる。こんな時、幼くても女同士の結束は固い。賑やかな女子会が終わるまで父親は自分の部屋で潜んでいた。下手に顔を出せば小さな訪問者たちに値踏みされそうだったからだ。

小さくて可愛いくつたちが消えた後、玄関は静けさを取り戻していた。タイルの上を軽く掃いて自分の黒い革靴を整えると途端に華やかさが消えた。

否定するように、足早に娘の元に向かった。

「どうだった」と聞いたら、「まあね」と娘の興奮は既に醒めてるようだ。
関心は父親だけに残っている。
きっと世の「女子会」もそんなものだろう。


ナンバー2の憂鬱

 小学二年生の私は、身体も小柄で奥手で、友達の輪の中でいつも二番目の位置を保とうとしている、そんな臆病な子供でした。
 
臆病なくせに自尊心だけは高く、今日は誰か自分のことを話題にしないかと、自分に興味を持ってもらうことばかりを考えていました。いつも待つばかりで自分から動き出すことはありませんでした。
 
小学二年生の集団でも自然と序列ができます。その中のナンバー2は厄介な存在です。
立ち位置を保ちながらナンバー1を虎視眈々と狙っています。一番への執着心が強く、勝手にナンバー1をライバル視しています。でもなれないことは薄々気づいています。
 
序列の三番手、四番手は個性を生かして別の路線を歩むことができます。対して、ナンバー2は、いつも一番手を見ているためその道を見失いがちです。上に行く道は遠く、横に逸れる道も想像できないでいます。
 
ナンバー2が抱える憂鬱は厄介ですね。
 
 ナンバー1の実力が発揮されるのは何か問題が起きた時です。大きな曲がり角をむかえた時です。即座の判断と大胆な決断は魅力的に映ります。でもある人に魅力的に映る景色も別の人には違った景色に見えることがあります。ナンバー2の人材は別の景色を見ています。
 
大人になっても同じようなことが起きています。新しい波に立ち向かうには強い意志が必要です。しかし波が静かになった凪の状態は、強い意志を得意とするナンバー1には退屈な時間になります。
そんな時力を発揮するのがナンバー2の平らな世の中を好む発想です。平静を保ちながら持続的な状態を維持できる能力です。平静な状態を楽しめる才能です。
 
ナンバー2には、二番手としての生き方があります。
それはナンバー1を目指して今もナンバーになりきれない憂鬱な生き方ではありません。それだけで価値のある必要とされる生き方です。
 
憂鬱な気持ちがあるとしたら時と活躍する場所が違っているかもしれません。だったら自分の居場所を探してください。


またひとつ、電話番号を消さなくちゃいけない

 俳優の梅宮辰夫さんが亡くなった知らせを受け、和田アキ子さんが語った言葉。

なんて悲しい言葉なんだろう。寂しい言葉なんだろう。自分の悲しみや寂しさを、どう表現したらいいかわからない。そんな気持ちが犇々と伝わってくる。
 
 逝去の知らせを受けたとき、誰でも一様は驚くだろう。そして亡骸に対面すれば、驚きは悲しみに変る。でもこのとき気持ちを言葉にする変換作業は進まず、ただただ身体の震えが修まらない。この人との思い出はまだ頭の中でうまく描ききれないでいる。過去のものになっていない。生きてることが悔しくもなる。
 
心の変化は徐々にやってくる。
悲しみが癒え、こころの震えが収まったあとで、次に襲ってくるのが言い知れない虚無感だ。寂しさだ。こころと身体が冷えて、その存在すら感じない。重苦しいという言葉の重さも感じることができない。自分でも不思議なくらい冷静でいる。

「心にぽっかりと穴があく」とは、このときを言うかもしれない。
 
そんなときに出てしまう言葉。
「またひとつ、電話番号を消さなくちゃいけない」
少し現実に触れるときだ。そうだ、そろそろそうしなきゃと椅子から立ち上がる。
 
ここには、この言葉には、今から前に経験した悲しみや寂しさがまだ纏わりついている。それでももう私から電話をかけることはない。そしてかかってくることもない。
連絡先を消去しなければいけない。でも名前を消す指先はいつも行き先を迷う。だから今でも文字だけ残る友達もいる。
 
私たちは、同じような気持ちの流れを何度も経験している。
そして、いつか亡くなった人は完全にいなくなる。
それでいい。歳をとるとはそういうことかもしれない。


まだ感情を取り戻す術はある

「〇〇の乳児殺害事件 母親に懲役五年求刑」
生後間もない乳児を窒息死させたとして、殺人の罪に問われた無職○○被告(二四)の裁判員裁判の論告求刑公判が十四日、名古屋地裁○○支部であり、検察側は懲役五年を求刑した。公判では、双極性障害(そううつ病)を発症した被告の犯行時の責任能力の程度が争点となった。検察側は論告で、完全責任能力が認められると主張。「慣れない育児から逃れようと犯行に及んだ」と指摘した。弁護側は「犯行当時、重度のうつ状態にあり、限定責任能力が認められる」と主張。保護観察付き執行猶予の判決を求めた。判決は二二日。(記事一部修正有り)
 
 新聞の地方版に埋もれていた記事だ。原稿用紙一枚分四〇〇文字で済まされていた。私は、今月この裁判員裁判を傍聴している。今まで六回の公判が行われ、来週判決が下される。
 
裁判開始直前、法廷に被告が連れられきた。小柄な被告が大柄な二人の刑務官に挟まれ裁判官を待っていた。腰縄が解かれ黒く冷たい手錠が外された。中央には書記官、左の検察官、右の弁護人、それぞれ二名がいる。
三人の裁判官、六人の裁判人が法廷に入ってくると、傍聴人を含めたその場の全員が起立して無言で頭を下げる。傍聴人は毎回二〇名ほどだろうか、論告が行われた六回目の公判には四つの記者席も用意されていた。その一人が今回の記事を書いたのだろう。
 
 「ひとりの若い母親が生後九日の乳児を殺害した」この事件には、この場だけでも多くの人が関わっている。二人の検事、二人の弁護士、三人の裁判官、六人の裁判員、そして傍聴人。公判で嗚咽混じりに自分の娘と亡くなった孫に懺悔する被告人の母親もいた。精神鑑定をした医師も証人として呼ばれた。選ばれた裁判員はこの場の言葉を一言も聴き漏らすまいと真剣な眼を被告や証言者に向けていた。被告の父親や母親の歳に近い二人の裁判員の顔は、真剣な表情のなかでも悲しげだった。裁判員に選ばれた人たちは、みな事件ではなく人間を見ていた。何が起きたのかを確かめながら法壇からずっと被告人を見ていた。
 
来週判決が下される。
どんな判決が出るか、傍聴人のひとりなのに私の感情も掻き回されている。黒い塊の表面が溶け出し、液状化した頭の中で濁り始めている。ひとりが亡くなり、ひとりがその罪を犯した。何のゆかりも無い事件なのにこんなに辛くなるものなのか。
 
 こんなに辛い、どうしていいか、今何をしていいかわからない、黒い塊が身体の中で動き回り心の置き所がわからない。こんな思いは久しい。でも、みなさんにもこの思いを感じてほしい。法廷の傍聴席に座ることから始めてほしい。手錠と腰縄につながれた二四歳の被告人の姿を自分の目で見ていただきたい。テレビのニュース画面だけでは心の中で何の化学反応も起こらない。
 
こうしている内にも、子供が犠牲になる事件が何件も知らされた。アナウンサーは一分で原稿を読み終え、笑顔で「さあ、次はオリンピックの話題です」と強引に私の感情の尾を断ち切った。
だから偶然見つけたひとつの事件でいいから、何の関係も無い事件でいいから、心にしっかり体重を置いて自分の内側に起こった泥の海を覗いてみたい。それが私に出来ることだと思う。
 
どういう判決になるかということ、ではない。
この事件に関わった人たちを見て、自分はこれからどうするか、この変化が大事だと思う。
 
まだ感情を取り戻す術はある。
思いっきり頭の中を搔き乱してほしい。何の関係も無い事件でいいから、今生きてる人間の体温を感じて欲しい。
 
私はどうしようか
決して世の中を正そうとか、変えようとは思わない。被害者や加害者を救うことも出来ない。卑怯者だ。
私の出来ることは、自分の身の回りから、近いところから整えていくことだと思う。目の前の家族の話をもっと聴き、心配し、いっしょに喜び笑う。ひとつひとつ丁寧に。それが、事件に関わった人たちへの礼儀だと思う。
美しいものは美しいと声に出して、うれしいときは笑顔をふりまき、哀しいときは、悔しいときも手で涙をぬぐいながら子どものように泣く。こんなこともいいかもしれない。

 始めは新聞記事のわずかなスペースだった。
わずか二〇〇文字で二年前に起きた殺人事件の裁判が始まったことを知った。ここからこんな感情が湧いてくるとは思わなかった。でもとても大切な、温かい体験だったと今は思う。

二四歳の母親は最終陳述で、「障害があろうとなかろうと、私が殺したことは消えない事実」と述べていた。何とも哀しい言葉だった。

追伸 
2022年2月22日  懲役四年六カ月の実刑判決
      7月6日  名古屋地裁控訴審判決 
            一審判決支持 控訴棄却


#創作大賞2023 #エッセイ部門


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?