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ざっくり信州中世史③エピローグ、あるいは諏訪四郎勝頼。

武田信玄晴信の四男である武田勝頼は、諏訪惣領家の娘・諏訪御寮人を生母に持ち、高遠諏訪家の名跡を継いで、諏訪四郎勝頼として育てられた。
諏訪惣領家は武田信玄によって滅ぼされ、勝頼の祖父・諏訪頼重(南北朝期の頼重とは別人)は、甲府に連行されて幽閉ののちに切腹させられている。
武田信玄という人物は、善光寺の絶対秘仏を甲府へと持ち出したり、大祝たる諏訪惣領家を滅ぼしたりと、信州の二大神仏の権威を徹底的に破壊したと言える。
それでいて、塩田平にある生島足島神社の起請文の力を活用したり、信長相手には天台座主を標榜したりと、神仏の力を最大限に利用することをも忘れない。
よく織田信長のことを評して、神仏を恐れぬ近代的精神の持ち主といった評価がなされるけれども、武田信玄は、信長にも負けず劣らず、むしろ信長には先行する形で、神仏を恐れず、神仏を利用する近代的精神の持ち主であったように見えなくもない。
信長と信玄を比べるに、信長が革新派で、信玄は守旧派とされることが多いけれども、生きていた時代背景が異なるだけで、ふたりは似た者同士であったのではないかと思えてしまう。
佐久平の安養寺には、信玄が残したとされる大般若経が伝わっているというから、信玄自身、一切は空で下天は夢と無意識下において認識していたのかもしれない。
古代から連綿と引き続いていた信州の中世を、言うなれば徹底的に破壊して信州に次の時代を準備したのは、ほかならぬ武田信玄であっただろう。
信玄は、戦火に放り出された神社仏閣について保護をしたりした形跡が沢山見受けられるけれども、信州側からの視点で見れば、どうにも素直にありがたいとはなりにくいものである。
蹂躙され従属させられた信州側の立場に立つと、素直にありがとうとはならないような気がする。
そんな信玄の政策によって、諏訪惣領家とその分家である高遠家は滅ぼされ、総領・諏訪頼重の孫でもある諏訪四郎勝頼は、高遠諏訪家の名跡を継いでいた。


高遠城に在城することも多かったであろう勝頼は、甲州人であるよりも、信州人としての側面が強かったのかもしれないと思う。
信玄の側室として諏訪御寮人を迎えることに、甲斐の重臣たちはこぞって反対したというから、そこに生まれた勝頼の肩身の狭さは想像に難くない。
信玄の嫡男・義信が謀反の嫌疑で廃嫡・幽閉されて、切腹による死を迎えたために、その勝頼が、武田家の後継者として甲斐府中(甲府)に迎えられることとなった。
突然、武田の旧臣たちに固められた甲府・躑躅ヶ崎館へ迎えられるなど、跡取りとしての試合の種類としては、アウェーゲームに違いなかった。
正式な家督は、孫の信勝にゆずり、勝頼はその後見人、信勝元服までの繋ぎの当主とした、信玄の遺言は、勝頼の出生と育ちの複雑さを考えると、とても興味深い。
桶狭間の戦いで織田信長が台頭してからあとの武田信玄は、「人は石垣・人は城」の統治体制からは遠ざかっていくというか、焦りからか無理筋を通そうとしているように見えてしまう。
義信切腹についての動揺を抑えようと、家臣たちに、生島足島神社へ武田家への忠誠を誓う起請文を提出させるなどは、後ろめたさが透けて見えてくるように思う。
信長が今川義元を討ち取っていなければ、今川との同盟破棄も、北条との敵対も、今川義元の娘を娶っていた嫡男・義信の反発もなかったであろうから、歴史のドミノは残酷である。
織田信長を相手とする西上作戦が告げられたとき、信長の養女を娶っていた勝頼もまた、長兄・義信のときと同じように、父からは裏切られたように思えたのではないだろうか。
残された時間を急ぎに急ぎ、西上作戦は始められたものの、ついには病に勝つことは出来ず、信玄は世を去る。
織田・徳川を完全に敵に回したのちにバトンを渡されるなどは、あまりにもの出来事で、三年その死を伏せるだけでは到底足りないのではないかとさえ思えてくる。
せめて、三方ヶ原での家康への打撃と同じように、信長にも致命的な一撃を加えてからのことであれば、また違っていたのだろうけれども、信玄の命は一歩手前で燃え尽きてしまった。


勝頼には、創作において頻繁に描かれているように、父・信玄への負い目や引け目があったのかどうかは、甚だ疑問であると思う。
武田勝頼というひとりの人物の人生に、信玄礼賛視点を持ち込みすぎなのではないかという思いがしてしまう。
武田信玄晴信は、その死に臨んで、棺を諏訪湖の湖底に沈めるもらうことを願うほどに、諏訪信仰に対して畏敬と憧れの念を抱いていた。
けれども、勝頼自身は、母である諏訪御寮人を通じて、諏訪信仰の中心である諏訪明神の血を引いている。
父にとっては畏敬と憧れの対象でしかなかった諏訪明神が、勝頼には、自らの存在のうちにあるように感じられたのではないか。
父・信玄からどのようにないがしろにされようとも、武田の重臣たちからどのように貶められようとも、勝頼の精神は、決して揺るがない堅固な地盤の上に立脚していたもののように思う。
武田信玄は、諏訪明神をその身に宿す吾が子・勝頼が妬ましくてあのような遺言を残したのではないかと、邪推したくなってしまう。
信玄は、その遺言において、勝頼の掲げる軍旗についてさえ、事細かい注文をつけている。
勝頼が、「風林火山」の孫子の旗を使用することを許さず、従来通りの「大」の字の旗の使用を申し付けたと言われている。
諏訪四郎勝頼が、それまで使用していたと前置きされている、「大」の字の旗。
この旗の文字を、かつての大塔合戦において、大文字一揆衆が掲げていた「大」の字の旗と関連付けるのは、いささか行き過ぎた解釈であろうか。
大文字一揆勢力の中核は、ほかならぬ諏訪神党・滋野三氏でもあった。
守護権力に対抗するレジスタンス精神と、信州諸侯の結束の象徴として、大塔合戦において掲げられた「大」の字の旗。
諏訪信仰をその身に受け継いで生まれた諏訪四郎勝頼にとっては、ひょっとすると、「風林火山」の孫子の旗よりも、大きな意味のある御旗であったのかもしれないと思う。
さらに想像を逞しくすれば、勝頼は、織田信長にさえ引け目など微塵も感じなかったのではなかろうか。
信長が、自らの理念を投影するかのようにうそぶいた第六天魔王の名も、所詮は自称、言うなればにせものではないか。
だが、自分は本物の諏訪明神の血を引く、諏訪明神のまったき血族なのだ。
勝頼は、父・信玄の偉大さとはまったく異なる次元において、絶対的な存在となることが出来ていたし、信長の形而上的な精神性とも、共鳴しながら反発することが出来たであろう。
まさに、「選ばれてあることの恍惚と不安ふたつ我にあり」である。
武田家の家督ですら、拘泥するほどのものではないと思えていたかもしれない。
武田の旧臣たちに囲まれた躑躅ヶ崎の館を離れ、甲府と諏訪の中ほどにある韮崎の七里岩の上に、新たなる居城・新府城を築いたことは、甲府と諏訪とを並列に考える勝頼ならではの施策であっただろう。
それはアウェーからの脱出、新たなる雄飛を意味していたはずだ。
北に八ヶ岳連峰、南には富士山が、その壮大さを競うかのようにそびえたつ韮崎の地には、天下を狙う昇龍の氣がみなぎっているかのようだ。
この地を居城として選択する武将には、卑屈さの影などはどうしても感じられないというのが、韮崎を訪れた際の本音である。


結局、韮崎の新府城は、未完成のまま信長による甲州征伐の時期を迎えたから、その攻勢に持ちこたえられないと判断されて、籠城戦を経験することなく破棄されることとなった。
新府城を落ち延びることとなった勝頼を保護しようと、岩櫃城の真田昌幸が声を上げたものの、勝頼はそれを断り、岩殿城の小山田信茂のもとを頼る選択をする。
一説には、真田氏が信玄晴信の代に臣従した新参者であったから信用できなかったとか、信濃衆であったから信用できなかったとか、そういう言われ方をされるけれども、それならば、条件は小山田氏も同じだったような気がしないでもない。
同じ甲斐国内とは言っても、郡内地域に国人衆として根付いていた小山田氏は、甲府を中心とする国中地域の武田氏とは長きに渡って抗争を繰り広げていたし、小山田氏が武田氏に臣従したのは、勝頼祖父の信虎の時代であったから、さほど古参というほどのものでもあるまい。
真田氏が信濃衆であったからという意見は、勝頼が、信濃で生まれ育った諏訪四郎勝頼であるという事実を無視しているように思う。
加えて、真田昌幸は、まだ家督を継ぐ以前、三男だったことから養子に出され、武藤喜兵衛と名乗っていた時期には、重厚そうに聳え立つ櫛形山の麓、現在の南アルプス市落合のあたりに館を構えていたというから、むしろ昌幸の方が甲州育ちなのである。
勝頼が、上州・岩櫃城の地を目指さなかった理由としては、その途上にある浅間山の噴火の影響が大きかったのだろうと思われる。
郡内地域の小山田氏は、甲府を中心とする国中地方からは半ば独立した勢力であったから、小山田信茂の側にも言い分や、信じるところのものはあったであろう。
けれども、その見限り方は、どうにも場当たり的に見えてしまって、あまりよろしくないように写る。
小山田信茂が岩殿城に至る道を封鎖し、勝頼は進退窮まることとなる。
歴史にIFはありえないけれども、個人的には、このとき、真田昌幸の誘いに従い、上州・岩櫃城に逃れて欲しかったと考える。
岩櫃山の山麓には、武田勝頼を迎えるために造営されたとされる潜龍院館跡が、ひっそりと遺されている。
信長の甲州征伐と時を同じくして浅間山の噴火が起こったことで、天が武田氏を見放したのではないかと、武田領内では、ある種、世紀末的・末法の世的なムードが漂ったのではないかという気がする。
このあたり、歴史のタイミングの残酷さをあらためて垣間見る思いである。


武田氏には、かつて、上杉禅秀の乱に加担して敗北し、天目山(木賊山)において自刃したという武田信満という先祖があった。
その武田信満の事績に倣うかのように、わざわざ天目山へと足を向け、勝頼もまた、滅びるべき武田家の当主として自刃をする。
信州に生まれ育った諏訪四郎勝頼ではあったが、その最期は、武田勝頼として甲州武田氏の幕を引いたのだろう。
西欧の人ならば、戯曲の題材として扱いそうな、数奇かつ劇的なる人生ではなかろうか。
武田家の家督を継ぐことになる前までは、諏訪四郎勝頼は、武田氏である前に諏訪氏であったと言える。
武田家の滅亡が確定的となったあと、勝頼は、諏訪家として生き残る術を模索してもよかったのかもしれない。
かつて、祖父・諏訪頼重がぼろぼろにしてしまった諏訪神党との共闘関係を、今一度、頼ることは出来なかったものだろうか。
勝頼を保護しようと手を挙げた岩櫃城の真田昌幸の誘いを断って、勝頼は、岩殿城の小山田信茂のもとを頼る。
結局のところ、勝頼は、父・信玄の遺徳を自らの存在に受け止め、甲斐国武田家の当主として生きる道を選択したのであろう。
諏訪をその一例とする信州には、亡国の遺児を匿って、然るのちに担ぎ上げて挙兵する、お家芸と言おうか、伝統のようなものがある。
それで言うならば、武田勝頼もまた、諏訪神党を頼って生き延びる資格があったように思う。
勝頼には、諏訪一族の血が流れているわけであるから、諏訪神党の旗頭としても申し分なかったはずなのだ。
そして、それこそが歴史的にもっとも美しい選択肢ではなかったかと思えてしまう。
木曽義仲の挙兵のときも、北条時行の挙兵のときも、いずれも諏訪神党として諏訪氏のそばにあって行動をともにしてきた滋野三氏。
滋野三氏の嫡家・海野氏を継いでいたのは、誰あろう真田氏ではなかったか。
その真田氏の当主・真田昌幸が、岩櫃城に諏訪勝頼を迎え入れようと、手を挙げていたはずではないか。
諏訪氏と滋野三氏、いずれ滅びるのだとしても、きっと美しい歴史の徒花を咲かせてくれたのではないかと、今は残念に思うばかりである…。

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