わけないままに、わかる。

わけないままに、わかる。
いや、「わけないままに、わかりたい」が正確かも?

【わかるは、わける。わかるは、かわる。】という今朝のnoteに反応を頂けた。
→わけない知性も、ディープダイブしてみては。

いやーー、まさに。
わけない状態でわかるというのだろうか。これ、まさに今僕が身につけたいなと試行錯誤しているのがこれ。特に「ニンゲン」や「社会」を理解しようとするのに、必要だと思っている。なんというか、複雑なものを複雑なままに理解しようと言う姿勢なのかな。

そう。分けたくなるのをすこしおさめて、ありのままを受け取る、と言うイメージ。これも、「わかる」のひとつだろうか。

あじの開きを、身をほぐして食べると言うより、鮎の塩焼きを頭からかぶりついて、全体としての複雑さをそのまま味わう。そんなイメージだろうか。

分けられれば、わかったりする。
でも、ジャガイモにんじん玉ねぎ肉と15種類のスパイスで使ったカレーのレシピを理解できたとしても、なんというか、完全な理解ではない気がするのだ。「わかる」は、「わける」だけど、不完全差が残るのかも。複雑なカレーを複雑なカレーとして受け止める、とか、「達人のわかる」は、そのまま受け止めるという行為な気がしないだろうか?

人間でいえば、内臓心臓皮膚脳みそに分けたからと言って、その人のことはわからない。立体的に複雑に、時に反対のことを言ったり行動したりするありのままを理解する。
それが、わけない知性なんだろうな。
思考があって、姿勢があって、知性になる。そんな感じだろうか。

ここらへんは、人類学とか文化人類学あたりを学び始めて、理解し始めたところ。人間を探求する時の姿勢こそが、そういうことなんじゃないだろうか。

ということで、

わけないまま、わかりたい。
複雑なものを複雑なままに受け止めたい。

ま、人間を他の人間が「わかる」なんてことには到達しないのだろうけど。

余談。
そういえば、「もやもやを抱きしめる。」分けない知性はそこにも通じる気がする。多摩美術大学クリエイティブリーダーシップコースで、散々言われた言葉だ。
正解はわからない。すっきりしない。
違和感を抱えたまま、霧の中をあっちでもないこっちでもないともやもやを抱きしめた先にクリエイティブが待っている。創造や生命には、そういうメンタリティで望む必要があるんだろうなぁ。

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