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日本人はなぜ日本から一番近い海外に関心がないのか?

突然ですが、皆さんは日本から一番近い海外(国)ってどこか知っていますか?

韓国? 台湾?? いいえ、ロシアです!! 

ここでのロシアとは、いわゆる実効支配されている北方領土をのぞく、北海道のすぐ真上にある巨大な島、サハリンのことを指します。

台湾は与那国島から111Km、韓国は対馬から50Kmに位置していますが、どちらの場合も、いわば離島からの距離です。
ですが、
サハリンは北海道本土の宗谷岬から、たった43Kmしか離れていません!
(スカイツリーの展望台から見える富士山、あれで105Km!)

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北海道とサハリン

え? そんなに近い距離にこんなデカい島ありました?
って驚く人が少なくないです。悲しいですが、これが現実。

しかし、この1週間で、世界が、歴史が、変わりました。

もう関心がないでは、済まされなくなりました。
どうしても今書き記しておきたいので、2005年(戦後60年目)夏に渡航した極東ロシア・サハリンの話をします。


戦争がはじまった


2022年2月24日。日本から一番近い国ロシアが、隣国ウクライナに対する軍事侵攻に踏み切りました。1週間経った今もロシア軍とウクライナ軍双方の攻撃が続いています。
当初、ここまで全面的な侵攻になると考えていた人は多くなかったようですが、現在、標的は軍事施設だけでなく、都市のインフラや庁舎にも拡大、さらに市街戦が繰り広げられ、完全に戦争と化してしまいました。

そうした中、各国のロシアに対する経済制裁の圧も高まっています。

制裁の手段も色々ありますが、僕が特に注目したのが、昨日今日の連チャンで飛び込んできた、世界のエネルギーに関連するニュース。
極東ロシア・サハリンの石油・天然ガス事業からの、米英の巨大企業の相次ぐ撤退表明です。

ニュースの内容は以下の通り。

3月1日 「サハリン2」から英シェル撤退  

サハリン2はサハリン沖の大規模な資源開発事業で、ガスプロムが約50%、シェルが約27.5%出資している。ほかに日本の三井物産が12.5%、三菱商事が10%それぞれ参加している。液化天然ガス(LNG)の供給元として日本のエネルギー安全保障上も重要で、日ロ経済協力の象徴的な存在だ。

日本経済新聞

3月2日 「サハリン1」から米エクソン撤退

主に原油を生産するサハリン1にはエクソンが30%を出資。ほかにサハリン石油ガス開発(東京・港)が30%、ロシアの石油大手ロスネフチとインドの石油天然ガス公社(ONGC)が20%ずつ出資している。サハリン石油ガス開発には経済産業省、伊藤忠商事、石油資源開発、丸紅、INPEXが出資している。

日本経済新聞

エネルギーに関する問題って、経済的にも政治的にもインパクトの大きさは図り知れないんですよね。欧州は発電等に使う天然ガスのかなりの割合をロシアに依存してますし、上に書いてあるように、サハリンの事業は日本の大手商社やゼネコン、国が相当関わっています。

日本のみなさん、コトの重大性に気づいてますでしょうか。

今後、光熱費など身近な生活に直結するばかりか、日本の安全保障の問題にも非常に大きな悪影響を及ぼします。

はじまってしまった戦争を食い止めることは極めて困難ですが、戦争の火種をなるべく作らないよう、努力するべきだと思います。

僕個人の考えですが、戦争しないようにするために重要なのは

1. 相手のことを深くよく理解する
2.   利害関係を共有する

の2つだと思います。これは国家同士にも言えますし、家庭や職場、学校など幅広い人間関係でも応用が効きます。
この重要性については、また後で述べることにします。


日本から一番近くて一番行きづらい海外


サハリンは、戦前は樺太と呼ばれ、特に北緯50度以南の南樺太は、日本よって開拓・開発が進められました。
現在の州都ユジノサハリンスクは、日本時代は豊原といい、樺太庁が置かれました。

2005年当時、大学3年生だった僕は、宗谷岬の目と鼻の先にあるサハリンにどうしても行ってみたくて、旅行会社との交渉や、極東ロシアに関する事前調査を経て、渡航を実現させました。
定かではありませんが、ただの学生として戦後初めてサハリンを個人旅行をしたのが僕だと思われます。
なぜなら、その頃はビザ発券が今よりかなり大変で、サハリンへ行く人は、戦前樺太で生まれて帰郷する人、研究者、政府関係者、ジャーナリスト、「サハリン1」「サハリン2」のプロジェクトに関わる商社・ゼネコン関係者ばかりで、ごく普通の人は特定の高額ツアーに申し込む位しか方法はなかったからです。

ビザ発券をしつこくお願いする中で、ある旅行会社の人からは、

「観光でいくような所ではないですよ?何しに行くんですか?」

と露骨に嫌味を言われました。

別に、特別な何かを見たいわけではありません。
東西冷戦時代に「鉄のカーテン」と言われた、宗谷海峡の向こう側にはどんな国があって、どんな人々が住んでいるのか、それすらも殆ど知られていないことが好奇心となり、言葉には表せない衝動に駆られていたのです。

確かに普通は行こうと思わないかも知れませんし、情報が少ない分、リスクがないわけではありません。でも北朝鮮や北方領土とは違って、ちゃんと現地に日本領事館があり、外務省が正式に認めるルートで行けます。

ただし、学生なのでとにかく最安で行く方法を考える必要がありました。
ルートは2つ。函館からロシアの飛行機か、稚内から日本のフェリーか。
結果、安い方のフェリーで、羽田から稚内まではANAのバースデーパスを狙いました。これだけで羽田稚内往復5万くらい安くなりました。

問題のビザですが、奇跡のような担当者に出会いました。
クレオトラベルという北海道の旅行会社の方です。

「空気吸って、土を踏んで帰ってくるだけで良いので、サハリンにいってください。」

完全に僕と同じタイプの人間でした。
そういう変態学生、待ってましたと言わんばかりに、現地のホテル予約、送迎車、通訳(税関審査に必要なロシア語の書類を代理で書いてくれる人)までを、完全オリジナルで最安で手配してくれました。

かくして、あらいきよてる20歳、日本人学生は、文字通りサハリン行きの切符を手に入れたのです。

ロシア国境のまち、稚内


今はコロナという別の理由で行けなくなってしまった海外ですが、近年はサハリン旅行も割と認知度があがり、横浜からもダイヤモンドプリンセスのような大型クルーズ船が出るようになりました。さらに成田からは、ユジノサハリンスクへの直行便も飛ぶようになったようです。
でも稚内という日本最北のまちの印象も、サハリン同様強く残っています。

自衛隊のレーダーサイト

こちらは、稚内市街からも比較的近い、ノシャップ岬の様子です。
日本最北の自衛隊拠点「稚内分屯基地」ですが、同じ敷地に陸海空3つの部隊が駐屯し、大きな複数のレーダーでロシア軍の動きを常に監視し続けています。不審な航空機が防空識別圏(ADIZ)に入ると、千歳基地から航空自衛隊が緊急発進(スクランブル)することになっています。
もちろん宗谷岬も行きましたが、こちらの方が圧巻でした。

稚内市街地の道路標識

稚内に行ったことがある人は分かると思いますが、道路標識も、商店街の看板も、ドラッグチェーンの看板も、みんな当たり前のようにロシア語が併記されています。今でこそフェリーの定期便はなくなってしまいましたが、2000年代初頭は、かなりのロシア人が稚内のまちに来ていたことが伺えます。

ちなみに、稚内の本屋さんに入ったとき、ふと1冊の本が目に留まり、ざっと目次を読んで即買いしたのがこちら「ロシア国境記者」です。
フェリーの中で一気に読みましたが、旧ソ連やロシアが極東で何をしていたのが、サハリンにはどんな背景があるのか、とても理解が深まったのでお勧めです。

稚内国際客船ターミナル

一番ビックリしたのが、サハリン行きのフェリーが着く国際客船ターミナルです。
僕が住んでいる横浜では、「大さん橋」が2002年にリニューアルオープンしていて、何となく乗り場の雰囲気も楽しみにしていましたが、稚内のそれはターミナルというより、工事現場にあるプレハブのようでした。

乗船窓口

というより、実際のところ本当にプレハブで、トイレすら外という状態でした。あとにも先にも、こんな小さいターミナルから日本国外に出国することはないと思います。

サハリンで見たもの、感じたこと


稚内を出航すると、サハリン側はコルサコフ、戦前は大泊といわれた港に着きます。岬同士は近いですが、港は湾の一番奥にあるので5時間近くかかります。ただし、船の中で本を読んだり景色を見ていると意外と長くは感じませんでした。
ふ頭に接岸し、スクリューが逆回転すると、海の色がどす黒く変わりました。ヘドロが堆積していたんだと思います。朽ちた錆だらけの船、屑鉄の山。観光で行くような場所じゃないというのは本当です。

コルサコフ港(2005年当時)


また、日本の場合、入出国は外務省の管轄ですが、極東ロシアの場合は、軍の管轄だったので、プレッシャーがハンパじゃなかったです。写真撮ってるところを見つかったら、捕まるんじゃないか?みたいな緊張感があり、怖くて下船時はカメラを出せませんでした。

タラップを降り、建屋に入り、窓口にいる強面のロシア軍人にパスポートや申告書類を提出し、じっと入国手続きを待つ時間が緊張のピークでした。そして、ビザが貼ってあるページに「Ко́рсаков」(コルサコフ)という印をガチャコン!と押されたとき、ようやく

サハリンに着いたー!!!

という達成感と喜びが湧きあがってきたのです!
到着した。
それだけで満足でした。

入出国窓口(帰り)

ここまでの話だと、やっぱりロシアは危険なところだ、戦争しそうな国だ。行っても怖い思いをする。と多くの方は感じていると思います。
僕自身、入国手続きが完了するまで、そう思っていました。

コルサコフ港の哀しい景色。軍人の怖すぎる手続き対応。
ムリを言って、安く手配してもらった弾丸サハリンだし、現地での通訳の人も片言の日本語で、旧ソ連時代のボロい車で、迎えに来てるんだろうと思っていました。担当者のカタカナの名前をみても性別も分かりません。

最低の期待値でロビーにでると、

「KIYOTERU ARAI」というプラカードを掲げた、
モデルのように美しい女性ガイドさんが立っていました。
しかも、2人!

「あらいさんですか?手続き、一番早かったですね! はじめてです!」
流暢な日本語でした。
もう一人の女性は、稚内の大学を春に卒業したばかりのインターン生。
そして、外にはキレイなミニバンに、運転手が待機していました。

リュックサックしょった大学生1人に、3人体制というオーバースペック。
というか、商社マンとか政府関係者しか客として想定してないので、そういう変なことになるんだと思います。
やはり、どうしてサハリンに来たのか聞かれましたが、
大学の研究。ということで一応理解してもらったようです。

州都ユジノサハリンスクのホテルまで1時間弱。写真を撮って良いか確認すると、あっさりOKをもらいました。

幹線道路沿いによくある看板

サハリンの国道沿いからの景色は、自然は北海道のようで、走ってる車も殆ど日本車でしたが、集合住宅や商店の雰囲気が完全にロシアでした。
古いままの建物もありますが、造成中の宅地や、建設中の大きなビルもあり、北海道よりも不動産開発が盛んな印象を受けました。
当時はまだありませんでしたが、その後大きなショッピングモールも作られたほどです。それほど、オイルマネーというか、石油・天然ガス資源の恩恵を受け始めていたのだと思います。

在サハリン朝鮮人のプロテスタント教会と開発中の新興住宅地

サハリンには日本時代に移ってきた朝鮮系の人々が今でも多く住んでいます。他にもウクライナ系も含め、意外といろいろな住民がいるのです。
また、ユジノサハリンスクは人口18万人と、北海道第4位の苫小牧ほどの規模のある、けっこうな都市です。
にも関わらず、世界中どこにでもあるマクドナルドやセブンイレブンのようなチェーン店が一切ないのが不思議でした。

ユジノサハリンスク駅近く
レーニン像
旧北海道拓殖銀行 豊原支店

まったくロシアの街になってしまっている一方で、日本時代の建物も少なからず存在します。その後、観光客の増加に伴ってそれっぽい施設や名所も整備されたようですが、ここでは割愛します。
(立派な教会や博物館、遊園地とか、何でもあります)

送迎車の中で、ガイドさんが話してくれて印象深かったのは、

サハリンの人は、日本が豊かでキレイなことに対して憧れをもっていること。

インターンのガイドさんに、世界中どこにでも住めるとしたら、どこの国に住みたいか聞くと、

「英語も日本語もできるので、アメリカか、日本に住みたい。」

と答えてくれました。

もし、夏休みに海外に行けるとしたら、どこで何をしたいか尋ねると

「パリで買い物してみたい」

という、女子っぽい答えが返ってきました。

他の現地の住民もとても親切で、ロシアの軍人だけが例外的に、やたら怖いイメージを放っているんだなと、考え方がずいぶん変わりました。

国境を越えてつながるには


樺太は第二次世界大戦末期、旧ソ連軍の侵攻によって領土を奪われ、その後東西冷戦に突入したことで、まったく行き来することができない、閉ざされた場所になってしまいました。
1983年には、サハリン上空を通過した大韓航空のジャンボ旅客機が、旧ソ連の戦闘機に撃墜され、269人が犠牲となる痛ましい事件も起きました。

このように、軍事的に非常に緊張が続いていた「鉄のカーテン」ですが、最初にこの絶望的ともいえる壁を越えて、日本と極東ロシアの友好の懸け橋になったのは、コンスタンチン君という3歳の男の子でした。

この話、知らない人は、絶対に読んでください!!!!!!

ロシア連邦サハリン州ユジノサハリンスクに、日本と深い絆を持つ少年がいる。コンスタンチン君である。コンスタンチン君は、1990年3歳のとき、全身の90%におよぶ大やけどを負った。地元の医師たちは、誰もさじを投げ、あと70時間の命と宣告された。家族は、医療技術の進んだ日本に最後の望みをかけた。
しかし、東西冷戦の続いていた当時、サハリンと日本は、鉄のカーテンで厳しく隔てられていた。そのとき、国境を越えてコンスタンチン君を救うために、互いに見知らぬ日本人たちが、前例のないプロジェクトに結集した。プロジェクトは、いくつかの厳しい障壁を乗り越えて、無事コンスタンチン君の命を救うことに成功した。

この救出劇は、小学校の頃「コースチャー坊やを救え」という道徳の授業で読んで知りました。その後、NHKの「プロジェクトX」でも取り上げられるなど、すごく象徴的なストーリーです。
一番近くて一番遠い海外、サハリンにいつか行ってみたい。という思いはここからきているのだと思います。

この記事の前半で、戦争の火種をなくすために、

1. 相手のことを深くよく理解する
2.   利害関係を共有する

という風に書きました。

どう行動すると相手が喜んだり、腹を立てたりするのか、対話から学び、きづき、お互いが納得できるように折り合いをつけるのは当たり前ですが、大人になって、変なプライドをもったり利益が莫大になりすぎると、そうした判断が単純にはできなくなります。

今、世界中がロシアに対して経済制裁を強化していますが、一方で、僕はサハリンでお世話になった人たちは今どうしているだろうかと考えます。
ウクライナ人も、ロシア人も、どちらも傷ついているのが本当に悲しい。

サハリンを巡る石油や天然ガスの問題も、日本のエネルギーが安定する、ロシアは現地の経済が潤う、双方の利益が大きく重なり合うと、戦争するメリットとデメリットを考えたときに、メリットの方が少ないという結論になるはずです。
かつての日ロ首脳会談では、むしろロシア本土とサハリン、北海道をつなげる鉄道を建設しよう。という話も出ていたくらいでした。

まずは、ロシアという日本から一番近い国のことを、日本人がもっとよく知ることが大事だと思います。
そして、一度戦争で壊れてしまった国家間の関係も、コンスタンチン君の救出劇のように、たった一人の子どもから変わっていく可能性もある。
小さくとも希望を捨てずに、平和に向かうように、考えて行動することが求められているのではないでしょうか。

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