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二〇二〇、インスタグラム引退元年。


 


2020年の7月から、喜代多旅館で働き始めました。

ここで働く前は、まさか自分が商品開発をするなんて、デザインをするなんて、夢にも思っていませんでした。が、それでも、商品を作りました。



(↑自分が商品開発を担当した、「まんでばやくサコッシュ」です!)


商品を作る、それを売り出す、という一連の作業に取り組むにあたって、できるだけ多くの方に好まれるもの、いわゆる「大衆ウケ」のようなものを大事にしたい、という気持ちは強くありました(モノを売る、ということは、商売する、ということなので)。けれど、それでも最終的には、「自分の感性」に従うようにしました。

迷ったり、こんなの皆んな好きなのかなぁ?とか、買ってくれる人ほんとにいるのかなぁ?なんて、自信をなくすこともあったけれど。それでも、最終的にはウェイトの大部分を、自分の「好き」「かわいい」「面白い」「これがいい」「こうしたい」にかけまくって、商品をなんとか形にしました。


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これは今だからこそ思うのですが、昔の自分だったらきっと、この商品を生み出すことができなかったと思います。それは、自分のデザインセンスとか経験の有無とか、そういったスキル面の問題ではなくて、私がただ単に「自分に自信を持てない」人間だったから、です。



自分は先日、「歳を取るとスティーブジョブズに共感できるようになった」という旨のnoteを書いたのですが(以下参照)、私はとにかく”他者の目線を気にする人間”でした。 



自分が他人からどうディスクライブされているのか、それにすごく敏感だったし、心の中では自分の信念について熱く燃えていても、いざとなるとそれを外に発信できず、いつだって尻込みしていたのです。


本気を出して、ダサいと言われるのが怖かった。

本気を出して、うまくいかないことが怖かった。


だから本気を出すことも、自分の感覚や感性に従って何かを生み出すことも、こうやって自分についてつらつらと文章を書き連ねて、世界中に向けてそれを発信することだって、できなかったし、そこからずっと逃げていた。

自分は他人とは違う、自分にしかできないことって絶対にある、なんてバカ正直に思いながらも、本気を出して特別になれなかったらどうしよう、そんな自分を受け入れるのは余りにもしんどすぎて、だから私は、本気を出すことを極端に恐れていました。

 

でも、今の自分はそんな過去の自分と比べて、そういうのを恐れずに何かを生み出せるようになったと思っています。上手い下手とかは関係なく、こうやって自分のことを、恐れることなく発信できるようにもなりました。

その背景にはきっと、様々な要因があります。「挑戦したなぁ~」と思えるような、自分にとっての大きな「点」も、たしかにあります。でもその中でも、そんなこと?って感じの出来事ですけど、実は「インスタグラムをやめたこと」が、私にとってはかなりパワーのあるビッグイベントでした。

  


初めて持った「好き」のテリトリーは、私の「一部」で、「虚構」だった。


インスタグラムは私にとって、自分の「好き」を集めたメディアでした。始めたのは2013年、高校一年生の冬とかだったはず。今思えば、昔から何かを発信することは好きだった、と思います。当時は古着に興味を持ち始めた頃だったので、古着屋で買った服とか靴とかを、インスタのフィルターで加工してよく載せていました。当時はツイッターやミクシィ、デコログといったメディアが主流で、インスタグラムはメインストリームではありませんでした。だからこそ、楽しかったんだと思います。自分の「好き」を好き勝手に垂れ流して、純粋な「好き」を詰め込める空間。

 

次第にインスタ利用者が周囲に増えるにつれて、マイノリティだと思っていたコミュニティが大きくなっていきました。別にみんなが嫌いというわけでは決してないし、今でも仲良くしてくれる子が数人いるけれど、それでも当時、クラスの男子にインスタをフォローされたときは、とても萎えた(ごめんなさい)。自分の内側にある趣味や嗜好を、自分が好き勝手に面白がっていた楽しい場所に、急にずかずかと足を踏み込まれたような気がして。。。

なんて、こんな発想も今思えば自分勝手です。だってインターネットという場で何かを発信する時点で、そこはプライベートではなく、100%パブリックになるから。アカウントに鍵をつけようが、ネットとはそういう場所なんだ、と今では思います。

 

コミュニティが大きくなっても、私は気にせずに投稿を続けていました。あなたのインスタいいね、素敵だね、って言われることもあれば、いじられることもあった、「なんかインスタグラマーみたいや~ん」とか。最初はそういうのも気にしていなかったのですが、だんだんと面倒くさいな、好きにやらせてよ、みたいに思うことも増えたし、何より自分がセンシティブになっていきました。

自分の「好き」を純粋無垢に「蓄積」していたはずなのに、いつの間にか自分の「センス」を振りかざし、見えない世界と「戦う」メディアになっていきました。ただの自己顕示を無意識に働いてしまうような、そんな場所になっていました。

 


ビジネスでも日常でも、インスタグラムは必修科目、落単なんてありえない。


自分の好きなものを、許容できる範囲の少数に対して、何も気にせず投稿するだけならよかったのかもしれないですね。でも遅かれ早かれ、インスタグラムがソーシャルメディアという形態を取っている時点で、私の利用方法がこのように変化するのは必然だったのかもしれません。(だからこそ今はSNSでのビジネスが盛んであり、強力なパワーを持っているのだとも思う)

 

顔見知りになったら、とりあえずインスタをフォローする、みたいな、そういったコミュニケーションの在り方についても、私は最初とても嫌というか、また自分の内部を他者の目に触れさせて、それについてとやかく言われたり、自分の偶像を作り上げられてしまう…とかって思っていたのですが(ひねくれすぎていますね)、そのコミュニケーションは同世代と関わる際にあまりにも自然に行われるので、それに抗うほどの嫌悪感も反発心も、環境に迎合していくうちにすっかり消えていきました。それでも私は周囲にいい顔をしながら、余りにも多くの他人のプライベートを、常に自分のテリトリーに取り込む感じが、ほんの少しストレスでした。

 

でも、それでも見ちゃうんですよ、ストーリーとか。これが本当にSNSの怖いところで、家でぼーっとしてる時、無意識に見ちゃう。そして、そのストーリーが楽しそうな飲み会だったら、家でぼーっとしてる自分の現状と比較して、なんかモヤっとしたりもして。今思うと、そんなの比較して気にすんなよ!って感じなんですけど。でも見てしまうと、やっぱり気持ちがそうなるし、そうなるとわかっていても覗いてしまうし。

そうやってインスタグラムは、オンライン上にのみ生息している「アカウント」でしかなかったはずなのに、いつの間にか現実世界の「私」自身をも飲み込んで、私の虚構が私の実態を凌駕するような、そんな感覚を湧かせるメディアになりました(ちょっと表現壮大すぎ?)

 

じゃあアカウントごと消せよ、って思われるかもしれないし、今なら私もそう思います。だけど、その当時は消したくなかったし、消す勇気もなかった。それは自分にとって、とても勇気のいることでした。

過去の自分が積み上げてきた「好き」の蓄積を、私はそう簡単には手放せませんでした。インスタグラムが自分のことを蝕んだように、私はそれが自分にとって、大きなアイデンティティのひとつだと思っていました。さんざん嫌だとか面倒くさいとか言いつつ、私を構成する立派な要素のひとつだと思っていて、だから、失うのが怖かった。

 

 

でも、意外となくても大丈夫、らしい。

 

それでも何だか色んなことに面倒くさくなった時期がありまして(2020年夏)、深夜に軽い気持ちで「あー、消そうかな」みたいな感じで、アカウントを消してしまいました(いきなり軽くてごめんなさい、でも本当にそのくらいの軽さだったのです)。忘れもしない2020年7月12日の夜。なぜ日付まで覚えているのかというと、当時の自分が日記を記していたからです。

 

日記にわざわざこの出来事を書き残した理由は、すごく嬉しかったから、です。インスタグラムを消した瞬間、私はとてもすがすがしかった。決してインスタをフォローしたり、されたりしていた人たちのことが、嫌いだったわけではないのです。でも、それでも、とてもすがすがしかった。

SNS時代に逆流する自分が面白かった、というのも、きっとあります。でもそれ以上に、みんなが思う「私」という人間、その呪縛から解き放たれて、オンライン上でいつでもアクセスできる「私」が消えたことが、嬉しかった。生身の私だけがようやく生き始める、そんな気がして、嬉しかった。当たり障りのない言葉になるけれど、でも本当に、自分が自分でいられるような、この世界に地に足をつけて、あー、ちゃんと「私」が、生きているんだな、なんて、そんなふうに思えた瞬間でした。

 

 

いらないものを削ぎ落としたら、理想の場所にたどり着いた。

 

喜代多旅館で勤務を始めたのは、ちょうど私がインスタグラムをやめたすぐ後でした。インスタ呪縛から解き放たれた「私」と、個性的な経歴を持つスタッフが揃う「喜代多旅館」という場所は、自分が思う以上に相乗効果が抜群で、相性がぴったりでした。

 

分類されず、カテゴライズされず、ただ「自分」としてその場にいれること。

自分が心地よいと感じる環境に、自分の身を置くことができること。

 

喜代多旅館、という職場は、それが叶う場所でした。スタッフのみんなが、自分なりの「面白がれるポイント」を持っていて、お互いがちょうどいい距離感の中で、それらを尊重し、分かち合うことができている、そんな組織だと思います。そんな環境で働くうちに、私も自分の「好き」を大事にしよう、人口の少なかったかつてのインスタグラムに、自分の「好き」を好き勝手に蓄積していた、あの頃のように、自分の「好き」を素直に愛し、自分の感性や感覚というものを、大事にしよう、そう思いました。



二〇二一年、「自分」元年。

そんな「喜代多旅館」という組織で働きながら、インスタグラムをやめた「私」が作った、私の感性が詰まった商品が、「まんでばやくサコッシュ」です。


それをインスタグラムを使って宣伝する、というのは、なんとも皮肉で、実に矛盾の激しいお話なんですが…。それでも、時間をかけて思いを込めて作ったものだから、やっぱり一人でも多くの方に知ってほしいのです。インスタグラムをはじめとするソーシャルメディアは、間違いなくそれに最適な手段でした。

 

自分が本気を出して取り組んだからこそ、自分の感性で正々堂々と挑んだからこそ、それを「好き」だと共鳴してくれる方が、一人でも目の前にいてくれるのならば。私はそれがとても嬉しいし、心から幸せだと感じます。

 

そして私は、今の自分なら大丈夫だって、根拠はないけど強く思うのです。インスタグラムに凌駕された過去を経て、本気を出すことを恐れない、自分らしくいることを恐れない、そんなスタンスを身につけることができた今の自分。二〇二〇年が「インスタグラム引退元年」ならば、二〇二一年は「自分元年」にしよう、と今決めました。


だから、これからもしサコッシュの宣伝に、インスタグラムを頻繁に活用したとしても、ツイッターだって上手に駆使したとしても。どうかそれらをそっと見守ってくださると、私はとても嬉しいです。(よろしくお願いします…!)

そして、そのようにSNSの動向を見守ってくださる皆様と、また、この記事を今まさに読んでくださっているあなた様と、オンライン上だけの関わりではなく、いつか直接お会いできますように。



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(↑イラストが得意なスタッフがデザインした、喜代多旅館オリジナルのラインスタンプ「とやま犬」です:https://t.co/w1ZnUJ9tAA?amp=1



私は喜代多旅館のことを、「自分なりの過ごし方が許されていて、普段の肩書きや役割といったものを忘れられるような、自分として居れる」場所、だと感じています。


肩の力を抜いて、ほっと一息つける空間・喜代多旅館で、あなた様といつかお会いできる日を、心から楽しみにしています。

 


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(※2021年1月11日〜2月28日の間は臨時休業しておりますが、新規のご予約は承っております。コロナウイルスの影響で旅行をするのは難しい現状ではありますが、万全な感染対策のもと、皆様のご来館を心よりお待ちしております。)



ご精読、ありがとうございました!

 

 

休んでかれ。